せば、儒を聞きて儒を疑ひ、仏を聞きて仏を疑ひても好《よ》し。疑へばいつか其《その》疑の解くることあり、それが道がわかるといふものに候。道がわかればいはゆる家事が非常に愉快なる、非常に大切なることとなる筈《はず》に候。又芸に秀づる人は、譬《たと》へば花ばかり咲く草木の如し。松柏《しょうはく》などは花は無きに同じ。されど松柏を劣れりとはすべからず候。何でもおのれの目前の地位に処する手段を工夫せねばならぬものに候。小生なども道の事をば修行中なれば、矢張《やはり》おきみさん同様の迷もをりをり生じ候へども、決して其迷を増長せしめず候。迷といふも悪《あ》しき事といふにはあらず。小生なども学問力量さまで目上なりともおもはぬ小池局長の据ゑてくるる処にすわり、働かせてくるる事を働きて、其間の一挙一動を馬鹿なこととも思はず無駄とも思はぬやうに考へ居り候へば、おきみさんとても姑に事《つか》へ子を育つることを無駄のやうに思ひてはならぬ事と存候。それが無駄ならば、生きて世にあるも無駄なるべく候。生きて世にあるを無駄とする哲学もあれど、その辺の得失は寸紙に尽しがたく候。ここに方便を申せば、おきみさんは名誉を重《おもん》ぜられ候ゆゑ、名誉より説くべきに候はんか。小生なども我は有用の人物なり、然《しか》るに謫《たく》せられ居るを苦にせず屈せぬは、忠義なる菅公《かんこう》が君を怨《うら》まぬと同じく、名誉なりと思はば思はるべく候。おきみさんもおのれほどの才女のおしめを洗ふは、仏教に篤き光明子《こうみょうし》がかたゐの垢《あか》をかきしと同じく名誉なりとも思はば思はるべく候。これは方便にして、名誉の価は左《さ》ほど大ならずともいふべけれど、名誉より是《かく》の如く観じ候如くに道の上より是の如く観ずるときはおのれの為《な》す事が一々愉快に、一々大切なるべく候。飛んだ説法に候へど、おきみさんへの返事のかはりに、此《この》紙に筆に任せ認《したた》め進じ候。
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十四日[#地から3字上げ]林
母上様
半紙を四枚|綴《と》じて毛筆で書いてあります。年月はありませんが、三十三年の秋の頃でしょう。
小倉というので思出しましたが、三十二年六月九日に赴任が発表になって、十四日に出立というので、主人が新橋へ参りましたら、大勢の見送りがあったといいます。しかしそれは形式上のことだそうで、十六日に今度は千駄木《せんだぎ》の宅の方へ暇乞《いとまごい》に寄りましたら、もう出立したとのことでした。誰にも時間は知らせないのでしょう。「おかしなことをするのですね」と申しましたが、私は産前でしたから、一切外出しないのでした。
三十三年一月に兄から母へ寄せた手紙の一節に、「小金井氏財政の事ども承知いたし候」とあり、「当郡病院長澄川といふもの参り話に小金井は咯血《かっけつ》したり云々《うんぬん》と東京より申来《もうしきたり》との事に候。尤《もっとも》咯血したりとて必ず死すとも限らねど或《あるい》は先日|腫物《はれもの》云々の報知ありしころの事にはあらずやなど存じ候。秘し居るにはあらずやなど存じ候、いかゞ」とあります。
この手紙も母が持って来て見せられました。主人は腰の辺に俗にいう根太《ねぶと》の大きなのが次々に出来て、そのために熱も出たのでした。私はそんな手紙は出しませんが、細大漏らさずにいい送る母から聞かれたのでしょう。案じて下さる御親切は喜びながらも、母と二人で笑ったのでした。咯血は主人の教室にいる若い助教授のことでした。その人は耶蘇《ヤソ》信者でしたが、短命で亡くなられました。
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拝呈。先日は御細書《ごさいしょ》下され候のみならず、其前後に色々御送寄|奉謝《しゃしたてまつり》候。然るに先日の御書状あまりに大問題にて一寸《ちょっと》御返事にさし支《つかえ》、不相済《あいすまぬ》と存じながら延引いたし居候内、今年も明日と明後日とのみと相成《あいなり》申候。家内の事は少なりと雖《いえども》、亦久慣の勢力重大なるため、改革の困難は国家と殊《こと》ならずと存候。先頃《さきごろ》祖母様を新築の一室に遷《うつ》しまつらんとせしとき祖母様三日も四日も啼泣《ていきゅう》し給ひしなど御考|被下《くだされ》候はば、小生が俄《にわ》かに答ふること出来ざる所以《ゆえん》も御解得なされ候ならんと存候。兎角《とかく》は年長の人々を不快がらせずに、出来る丈《だけ》の事をなすといふに止《とど》め度者《たきもの》と存じ候。然乍《しかしながら》御手紙|参《まいり》候ごとに一寸御返事に困るやうなるは、即《すなわ》ち真直に遠慮なく所信を述べて申越され候為にして、外に類なきことと敬服いたし候事に候。小供《こども》も次第に多くなりし為、文事にいとまなきよし承候。これも又似たる
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