氏などにお目にかかりました。裏の窓から少し離れた二階家に、たしか大沼枕山《おおぬまちんざん》という方が患っていられました。体が御不自由の御様子で、附添《つきそい》の人の動作がよく見えます。戸が皆開け放されているので見通しです。いつもお出になる賀古《かこ》さんは顔を顰《しか》めて、「あんなになりたくないなあ」といわれましたが、後年お望どおり突然ともいうべき御容体で、御自分はお亡くなりになりました。
 或時お兄《に》い様《さま》は風邪気《かぜけ》だといって寝ていらっしゃいました。下のお部屋です。そっと顔を出して、「いかがです」といいましたら、目くばせをなさるので、その方を見ますと、鳩が二羽来ています。こんな狭い庭にと思いましたが、清水堂からでも下りたのでしょう。じっと見ていらっしゃるので、手近にあった筆をとって、
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鳩ふたつあさりて遊ぶ落椿《おちつばき》
    あかき点うつ夕ぐれの庭
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と懐紙に書つけて「ただこと歌でつまらないでしょう」といいましたら、「このお茶と同じだね」と仰しゃいました。そこにあったお茶はさめて、色も香もないのでしたから、思わず笑ってしまいました。
 今度の家には弟も同居して、神田《かんだ》の学校へ通っていますし、赤松さんのお妹さんが二人、皆きれいな方でしたが、やはり来ていられます。大勢の家族ですから、部屋数はあっても、食事の時などなかなかの騒ぎです。下宿していた次兄も大抵来ていられて、夜など家人を集めて声色《こわいろ》をおつかいになります。団十郎《だんじゅうろう》がお得意でした。お兄様はお厭《いや》だろうと思いますのに、次兄はそれでも気軽にお兄様の御用をあちこちなさるので、「篤《とく》、篤」といって、御機嫌は悪くもありませんかった。
 お妹の勝子さんと仰しゃるお嬢さんは元気な方で、後からお兄様に飛びついたりなさいます。私などは幼い時から、お兄様は大切の方と、ただ敬ってばかりいるのでしたから、心の中でまあと思いましたが、お母様など、「登志子さんもあんな気風だったら」など仰しゃるのにまた驚きました。
 お客様でいつも夜が更けます。その頃西洋の詩を訳して『国民|之《の》友』へ寄せることになって、お兄様が文字と意味とをいって、それぞれにお頼みになります。中には意味だけいって、お自由にと仰しゃるのもありました。名のある方にまじって、私のような何も知らぬ者が片隅に首をかしげていた様子を思いますと、いくら昔のことでも背に汗が流れます。
 知らぬ間に時が過ぎます。電話もない頃ですから、家から迎いの車が来ます。更けて寂しい道を車に揺られて、口の中で出来かけの訳詩を呟《つぶや》きながら帰るのでした。雨の日なども行って、転んで著物《きもの》を汚して、お姉え様のお召を拝借して帰ったことなどもありました。
 そろそろ暑くなった頃の或土曜日に行きましたら、相変らずのお客です。「好いお茶碗《ちゃわん》はお人数に足らないし、お菓子もどうかと思う」と、お姉え様はおろおろしていらっしゃる。広小路まで出なければ何もないのでした。
 そこへお母様が見えました。「そんなに心配なさらなくてもいいでしょう」と、傍に店を開いたばかりの氷屋で、大きい器に削り氷を山盛り買って来させて、別の器に三盆白《さんぼんじろ》を入れ、西瓜《すいか》の三日月に切ったのを大皿に並べさせて、「これだけ出して、後は捨ててお置きなさいまし。寒い頃なら好物の焼芋にするのだけれど、招待したお客ではなし、間に合えばいいでしょう」と、削り氷に三盆白をかけて、私どもにも下さいました。気を揉《も》んだ後なので、お姉え様もおいしそうに召上ります。
「赤松などではお客があっても、家内の者がお相伴《しょうばん》するのではありませんから。」
「それはお客に依り、時に依ります。どんなものでも皆で食べれば結構です。」
 そんな話が交されました。
 後になって賀古さんなどがお出になり、寒い日などでお酒が出ても、湯豆腐位でお済ませになるし、それで誰も不服らしくはありませんかった。
 お祖母様が新嫁さんが見たいと仰しゃるのはお道理と、ちょうどその頃千住にお医者の会があって、お兄様に何かお話をといわれていたので、御一緒に車を並べてお出かけでした。お医者の方々はお兄様のお話を聞くために超満員だったといいました。その頃そんな折の会場はいつも郡役所でした。お姉え様は三味線をお持ちになったのです。長唄《ながうた》の何か一くさりを弾いてお聴かせになったのでしょう。後でお医者の方たちはお兄様のお話を喜び、お姉え様の長唄を聴いた者は、その音締《ねじめ》に感じ入ったのでした。お父様お母様の御満足が思いやられます。間もなく不運なことが起ろうなどとは、誰もが思いもかけませんかった。

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