を拭《ふ》き拭き笑っています。お兄様は、玄関の太い黒光りのする大黒柱《だいこくばしら》に倚《よ》りかかって、肋骨の附いた軍服のまま、奥へも行かずに立っていられます。
「詰らないことをするものではない。危いではないか。暗くなってから通りへ一人で出てはいけないよ」と、むつかしい顔をしておっしゃるので、それからは家で待つことにしました。
 その頃毎朝御出勤前に牛乳をお飲みになるのでしたが、時間までになかなか間に合いません。それにあまりお好《すき》でもないと見えて、追っかけて玄関へ持って来ても、よく手を附けずにお出かけです。その頃ですからコーヒーはないのでしょう。どうかしてお飲ませしようと、いろいろのものや葡萄酒なども入れたりしたらしいのですが、お見送りして引返すと、大黒柱の許《もと》に、お盆に乗せた薄紅色の牛乳があったことなどを思出します。
 私どもが他へ移った後には、その敷地に河合の土蔵が建ったように聞きました。
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   花園町の家

 私のような年になると、もはや未来はないと同じですから、思出すのはただ過去のことばかりです。
 兄が亡くなられて三十余年になりますから、その壮年の頃といえば六十余年前になるでしょう。最初に兄が一家を構えたのは根岸|最寄《もより》で上野|御隠殿下《ごいんでんした》の線路のすぐそばの新築の家でした。上野の坂下の方から曲り曲って這入《はい》るのです。あたりは広々としていますし、間取も日当りも好いので、探し当てた次兄はお得意でしたが、すぐ傍を通る汽車をそれほどにも思わなかったのでしょう。
 私が始めて尋ねた時には、千住からお母様が職人を連れて来ていられました。間もなく輿入《こしい》れなさる新嫁さんのお荷物は、持って来てもらわぬようにとはいってはありますけれど、あちらはお家柄だから幾分の心構えはしなければというのでした。
「千住の家も気になるから」と、まだお兄様のお引けにならぬ夕方早くにお帰りです。「では私もそろそろお暇《いとま》にしましょう」といいますと、次兄は、「何かおいしそうなものをこしらえて置いてお帰り」といわれます。脇田という書生と臨時雇の馴《な》れぬ女との作ったものでは満足出来ないでしょう。お母様が千住からお持ちになったものはあるのですけれど、有合せの材料で何か作って、暮れぬ中にと急ぎます。乗物は人力車しかないのですから。
 出際《でぎわ》にまたしても地響をさせて通る汽車に驚いて、「よくお兄様は我慢なさるのね」といいますと、次兄は、「嫌だろうけど、外になかったから」と、割合に平気です。縁側から見ますと、向いの右手に御隠殿の急な坂の片端が見えるのでした。汽車は目の前を通り過ぎます。
 御婚礼の日には、私は風を引いて出ませんかった。新婚のお二人は、家へ尋ねて下さいました。袿姿《うちかけすがた》の立派なお写真を見て、式に伺われなかったのを残念がりました。
 その後風が癒《なお》ってお尋ねした時は、新しいお荷物が並んで、床の間には袋をかけたお琴や三味線もあり、老女と女中とがいて賑やかでしたが、お兄様も次兄もまだお帰りでなく、どこにも馴染《なじみ》の顔は見えません。お姉《ね》え様《さま》は優しく待遇して下さるけれど、何だか落ちつきませんかった。
 そこへお客です。「榎本の叔母《おば》です」と仰しゃいます。老女に髪を結ってもらいに来たとのお話でした。品のよい太り気味のお方でした。
「買物もありますから」と、その日は急いでお暇しましたが、お兄様は間もなくその家をやめて、上野の山下にある赤松家の別邸へ移られました。あの汽車の音には、やはりお困りでしたろう。その家には前後二回伺っただけでした。
 東照宮下から動物園の裏門の方へ曲って、花園町というのに今度のお家があります。山を右にして左側がお邸《やしき》です。もと上野山へ納める花を造っていたとのことですが、日当りはあまり好くないようですから、大した花は出来なかったでしょう。生垣《いけがき》の間の敷石を踏んで這入るのでした。右へ曲って突当りがお玄関で、千本格子の中は広い三和土《たたき》です。かなり間数があったようで、中廊下の果の二間がお部屋、そこから上った二階がお書斎でした。八畳位でしたろうか、折廻しの縁へ出て欄干に寄ると、目の下の中庭を越して、不忍池《しのばずのいけ》の片端が見えます。眺めがよいというのではありませんが、あの頻繁《ひんぱん》に目の前を汽車が往復した家とは比較になりません。ただ夜更《よふけ》には動物園の猛獣の唸声《うなりごえ》がすると、女中たちはこわがりました。
 お部屋へは、よくお客が見えます。それが皆長座なさるのです。そこで始めて落合直文《おちあいなおぶみ》氏や市村※[#「王+贊」、第3水準1−88−37]次郎《いちむらさんじろう》
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