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   団子坂の家・曙町の家

 昭和二十年三月二十日のことでした。かれこれ五十年近くも住み馴れた本郷曙町《ほんごうあけぼのちょう》の私の家へ、強制疎開の指令が来て、十日以内に引払えとのことです。どことて空襲の来ぬ処があるはずもなし、やっと目黒《めぐろ》辺で地方へ疎開した人の家を探して移ることにしましたが、さて荷物運搬の便がありません。曙町の通から吉祥寺《きっしょうじ》前まで、広く取払われて道路になるので、私どもの家並は皆取崩されるのですから、荷物を山と積上げたトラック、馬力《ばりき》で一杯です。自然|競《せ》りあげられて、一台千円などという法外な値となります。向側は何事もなくて、立派な家が並んでいます。そこの人たちはそれぞれ地方などへ疎開して、空家《あきや》に留守番だけがいるのでした。そこでそのお家へ、大切な品はよく梱《くく》って幾つか預け、手廻《てまわり》の品だけ持って引移りましたが、どんな些細《ささい》な物にも名残が惜しまれるのでした。少し落ちついたら運んでくれるという約束でしたから、毎日のように電話をかけたり、見廻りに人を遣っていましたが、やっと都合が附いて、明日はという前日、四月十三日の夜の大空襲で、白山《はくさん》から巣鴨《すがも》まで、残らず焼野原となってしまいました。長年心懸けて貯えた書物や、貴重品などが皆灰になりましたが、ただ幸《さいわい》だったのは、主人が遺した沢山な蔵書を、この不安な世の中でも、ここで焼いては済まぬからと、全部大学に寄附することにしてありましたのを、やはり車が思うようにならず、幾度かに分けてようよう運び終ったことでした。それも焼ければそれまでとあきらめていましたが、大学は幸に無事でした。
 私たちがこの曙町に住むようになったのは、兄が団子坂上に移ってからなのです。兄は洋行から帰った当座は、池《いけ》の端《はた》の花園町におりました。そこで「舞姫」や『国民之友』の夏期附録となった『於母影《おもかげ》』などが出来たのです。ちょうど動物園の裏門前の邸で、奥まっていましたから、裏二階から不忍池は見えませんでした。夜が更けると猛獣の声が気味悪く聞えます。電車のない頃ですから、遅くなった時など、宅から迎いの車が来たことなどもあります。徹夜などは一向平気でいられました。まだ若かった私は、兄と知名の方たちとのお話を、いつも片隅で耳を聳《そばだ》てて、飽く時なく聞いていたのでした。
 兄は間もなく、俗に太田の原という処に移りましたが、そこは暫くの仮住いでした。後に夏目漱石《なつめそうせき》氏の住まわれた家なのです。それから団子坂に移りました。それまで千住で郡医などをしていた父は年も老いたので、兄と一緒に住むためにと、父母連れ立って地所を探して歩いた時、団子坂の崖上《がけうえ》の地所が目に止ったのです。団子坂はその頃流行の菊人形で、秋一しきりは盛んな人出でしたので、父も人に誘われて見に来たこともありましたし、近くに「ばら新」という、有名な植木屋のあるのも知っていたのです。その地所には板葺《いたぶき》の小屋が建っていました。そこに立ちますと、団子坂から、蛍の名所であった蛍沢や、水田などを隔てて、遥《はる》かに上野|谷中《やなか》の森が見渡され、右手には茫々《ぼうぼう》とした人家の海のあなた雲煙の果に、品川《しながわ》の海も見えるのでした。その眺望に引きつけられて、幾度も来て見るごとにいよいよ気に入ったので、近い平坦《へいたん》な太田の原から、兄を連れて来て取極《とりき》めたのでした。細長い地所でしたが、持主に懸けあって、裏隣の地所もいつか譲受《ゆずりう》ける下約束もしたのです。そこは小家ながら茶がかった室もあり、古びてもしっかりした土蔵が附いていました。質屋の隠居の住いだったのです。後に修繕して、そこに兄の蔵書が納められました。
 建増《たてまし》をするために、今まで住んだ千住から大工を連れて来たり、売買の仲介をした坂下の千樹園というのに、狭い庭の設計などをさせました。それは母が引受けたのです。兄も暇の時には、引入れた臥牛《ねうし》のような石に腰を掛けたり、位置を考えて据えつけた蹲《つくば》いの水をかえたりなどなさるのでした。少し落ちついてから、私は子供を連れて、父の部屋にした四畳半の茶室に行って見ましたら、松の鉢植や、鳥籠などを置いて、薄茶を立てていられました。連れて行った子が指《ゆびさ》すのを見ますと、蜀山人《しょくさんじん》の小さな戯画の額で、福禄寿《ふくろくじゅ》の長い頭の頂へ梯子《はしご》をかけて、「富貴天にありとしいへば大空へ梯子をかけて取らむとぞ思ふ」としてありました。主人の小金井は額は嫌いなので、子供は見附けないのでした。
「あれはどういうのですか。」
「前の人が置いて行ったのだ。
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