いて、量を計っては患者に渡します。
 千住の家では、凸凹《でこぼこ》の金属の板を張ったのに、細長くした材料を横に入れ、同じような板の両端に把手《とって》の附いたので押して、前後に動かしますと、二、三十粒の丸薬が一度に出来ます。大変重宝のようですが、手製の方がしっかり出来るということでした。しかし今は薬局生が拵えますから構いません。
 きょうは膏薬の原料を拵えるというと、外へ火を持出して、鍋《なべ》に白蝋《はくろう》を入れて煮立てます。外にも何か這入《はい》るのかも知れません。十分に溶けた時に鍋を下して、さめてから器に入れて置きます。単膏という札が貼《は》ってあります。水銀とか、芫菁《げんせい》とか、それぞれ薬を入れて煉るのです。よく膏薬|篦《べら》といいますが、なかなかしっかり出来ていて、それでよくしないます。まあ今のナイフのようです。
 或時書生さんがお勝手まで駈《か》けて来て、真赤な顔をして、頻《しき》りに嚔《くさめ》をして苦しそうなので、「どうなすったの」と聞きましたら、「今薬局で芫菁を磨《す》っているのですが、どんなに我慢をしても、あれには叶《かな》いません」とのことで、それから暫《しばら》く外へ出て休んでいました。
 夜お父様にお話したら、「それはその人の体質だよ。知らずに芫菁のいる木の下に休んでも、すっかり負ける人もある」とおっしゃいました。芫菁は発泡に使うのです。その書生さんは山本|鼎《かなえ》さんのお父さんで、修業中に手伝いをしていられたのでした。
 庭には立木が多いのですが、その間の何もない処を選んで、高い台の上に備前焼らしい水瓶が据えてあります。平常は栓《せん》がしてありますが、雨が降って来ますと、亜鉛の漏斗《じょうご》の大きなのを挿入れます。夕立の激しく降る時にはひどい音がしますし、霰《あられ》などは撥返《はねかえ》って、見ているのが面白いのでした。雨が止みますと取下して、硝子の瓶に相当の漏斗をさし、濾紙《こしがみ》を敷いて静かに濾《こ》すと、それはそれは綺麗な水が出ます。真水でいけない時に、蒸溜水の代りにそれを使うのでした。
 移転後|暫《しばら》くするにつれて、患者が来るようになりました。午後の往診も度々あって、代診の人たちもなかなか忙しく、自然収入も多くなるのでしょう。そんなことが続くと、お父様は、「きょうは奢《おご》ろう」と、皆を連れてお出かけです。私も一度だけ連れて行かれました。その時は浅草でした。私はお父様と一緒に家の車に乗り、書生さんたちはそこらで拾って乗ります。男ばかりだからと、黄八丈《きはちじょう》の著物《きもの》に繻子《しゅす》の袴《はかま》でした。お母様たちと出る時は、友禅のお被布《ひふ》などを著せられます。その日はまず江崎へ寄って写真を撮りました。それからそこらの料理屋へ這入って、皆にお飲ませになります。お父様は一猪口《ひとちょく》くらいしか召上らないので、私が口取《くちと》りを食べている傍で、皆の様子を機嫌よく見ていられます。車夫もその日は優待です。お母様のおみやげは折詰でした。
「当分はまた働いてくれるよ」と、後でお父様はおっしゃいました。出来て来た写真を見ますと、皆まじめな顔をして、袴をはいて並んでおり、私はおかっぱ頭を少しかしげて、お父様にくっついています。車夫は背が非常に高いので、端に立っているのが、鎗《やり》を立てたようだと、皆で笑いました。その写真は近年まで持っていましたが、今あったらさぞ面白いでしょう。
 私の通う小学校までは、一町ばかりです。二階建の校舎がまだ新しくて、さっぱりしていました。最上級でしたが、来る人は少くて、男生徒が五、六人、女は私を入れて僅《わず》か三人でした。一人は同じ町の外科病院の娘さんで内田さんといい、一人は千住《せんじゅ》名物|軽焼屋《かるやきや》の娘さんで牧野さんといいました。二人とも銀杏返《いちょうがえ》しに結っています。私一人は長く伸したおかっぱでした。
 その頃初めて縁日を見ました。学校の近くにある薬師様で、八日の縁日には賑わうのでした。近在から来ている女中の定が、目が少し赤いから、お薬師様へお参りしたいといいましたら、お母様は、「山本さんにお頼みして、お薬を拵えておもらいよ。だが、そこらが片附いたら、お参りはしてお出《いで》。賑かだろうから」とおっしゃったので、私も附いて行きました。
 夜は外へは出ませんでしたから、灯の一杯にともったのが綺麗でした。薬師は左の方なのですが、ひどく明るい右の方へ行きますと、道の右左ともに二階建の大きな家が並んでいます。それは貸座敷なのです。表二、三間は細い格子《こうし》になっており、中は広い座敷で、後は金箔を押した襖《ふすま》で、ちょうど盛粧をした女たちが次々と出て並ぶところでした。近寄らなくても、
前へ 次へ
全73ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング