ろうから、今少し出這入《ではいり》のよい場所を探したらと止めてもお聴きにならないで、とうとうそこになったのです。庭の正面に大きな笠松の枝が低く垂下《たれさが》って、添杭《そえぐい》がしてあって、下の雪見灯籠《ゆきみどうろう》に被っています。松の根元には美しい篠《ささ》が一面に生《お》い茂っていました。その傍に三坪ほどの菖蒲畑があって、引越した時はちょうど花盛りでした。紫や白の花が叢《むら》がって咲いていましたので、お母様が荷物を片附ける手を休めて、「まあ綺麗ですね」と、思わずおいいになると、お父様は、それ見ろとでもいいたそうに、笑って立っていられました。
 門前には大きな柳があり、這入った右側は梅林でした。梅林の奥に掘井戸があります。向島は湿地で、一体に井戸が浅いのですが、それでも水はよいのでした。お父様はお茶がお好きなので、水のよいというのをお喜びです。その井戸に被さるようになった百日紅《さるすべり》の大木があるのが私には珍しくて、曲った幹のつるつるしたのを撫《な》でて見ました。庭と井戸との境には低い竹の垣根があって、見馴《みな》れない蔓《つる》がからんでいますのを、「これは何でしょう」と聞きましたら、お父様は、「それは美男葛《びなんかずら》といってね。夏は青白い花が咲くのだ。もう莟《つぼみ》があるだろう。実が熟すると南天のように赤くて綺麗だよ。蔓の皮を剥《は》いで水に浸すと、粘《ねばり》が出るのを髪に附けるのだとさ。それで美男葛というのだろう」とおっしゃいました。
 柿の木もあり、枇杷《びわ》もあり、裏には小さな稲荷様《いなりさま》の祠《ほこら》もありました。竹の格子から外を見ているのと違って、ここでは勝手に遊ばれるので、学校の少し遠くなった位何でもないと思いました。お国を出てから今日まで我慢をしていらっしゃったのですから、お父様はお家の時はいつもお庭でした。

 賑やかな花の頃に、運動場からその花を見上げるばかりで、土手へはそんなに上りません。それでも風が吹くと、運動場は落花で真白になります。私たちは散った花びらを掻寄《かきよ》せて遊びました。女の子たちが続けて休むのを、病気かと思いましたら、掛茶屋へ手伝いに行くのだそうです。雨の日には皆来るので、それが分りました。大抵は近くの子たちですが、渡しを越して来るのも少しはあったようでした。花の咲いている間に、一、二度位は白髭《しらひげ》や梅若《うめわか》辺まで行って見ます。
 夏には流灯会がありますが、これは二、三日の間のこと、秋は百花園の秋草見物があり、「おん茶きこしめせ、梅干もさぶらふぞ」の招牌《かんばん》は昔ながらでも、それは風流の人たちが喜ぶので、小さな子たちには向きません。楽しみなのは渡しを向うへ越すことで、お休みの続く頃か、試験の済んだ跡などに連れて行ってもらいます。
 斜めの道を川の方へ下りますと、土手際に並んだ杭に、ざぶざぶと水のかかるところだけ苔《こけ》が真青に附いています。もやってある船に乗込んで、人の溜《たま》るのを待つ間はそわそわとして落ちつきません。やっと人が集ると、船頭が来て纜《ともづな》を解きます。「さあ出しますよ」と声を懸ける時、一度に、どやどやと乗込まれたりしますと、船がひどく揺れますから、小さくなってしゃがんでいます。
 川の真中へ出ると、船頭はゆっくり棹《さお》をさします。やっと落ちついて後を振返ると、土手の眺めがよいのです。花のある時は薄紅の雲が下りているようですし、人が混雑していても、遠くから見ては苦になりません。花を見ながら上下する屋根船もあります。花のない時も、桜若葉が青々と涼しそうに長く続いて、その間に掛茶屋の緋毛氈《ひもうせん》がちらちらと目に附きます。川には材木を積んだ筏《いかだ》が流れて来たり、よく沈まないことと思うほど盛上げた土船も通ります。下手《しもて》には吾妻橋《あずまばし》を通る人が見えます。橋の欄干に立止って見下している人もあります。そろそろ山の宿の方に近づきますと、綺麗に見える隅田川《すみだがわ》にも流れ寄る芥《ごみ》などが多く、それでも餌《えさ》でも漁《あさ》るのか、鴎《かもめ》が下りて来ます。
 岸へ上った辺は花川戸《はなかわど》といいました。少し行くと浅草|聖天町《しょうでんちょう》です。待乳山《まっちやま》の曲りくねった坂を登った上に聖天様の社があって、桜の木の下に碑があります。また狭い坂を下りると間もなく、観音様の横手の門へ出ます。その辺にはお数珠屋《じゅずや》が並んでいたようです。まず第一にお参りをしようとお母様にいわれて、十八間《じゅうはちけん》というお堂へ上ります。大勢の人々に毎日踏まれて、板敷《いたじき》はすっかり減っています。御本尊の安置してある辺は暗くて、灯が沢山附けてはありますが、真黒な
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