た。境内からは、塀のすぐ上に堤の桜がよく見えます。社殿は古びた清素な建築で、賽銭箱《さいせんばこ》の上に吊《つる》した大きな鈴も黒ずんでいました。下った五色の布を引いて拝します。その後側の裏門を出ると、桜餅で有名な長命寺《ちょうめいじ》の門前で、狭い斜めの道を土手に上ると言問《こととい》です。
 牛の御前の向い側にしもた家《や》らしいのが二、三軒、その並びに芸者屋が一軒ありました。千本格子の入口に大きな提灯《ちょうちん》が下って、〆八《しめはち》という名が書いてあり、下地《したじ》ッ子《こ》とでもいうのでしょう、髪だけ綺麗に結った女の子が、襷掛《たすきが》けで格子を丁寧に拭《ふ》いていました。いつかお母様とその前を通りかけた時、人と立話していた芸者が、「お出掛けですか?」といって、寄って来ました。お邸へ来るので知っているのです。「お嬢さんですか?」と、しゃがんで私の両手を取ります。びっくりして、手を引込めようとしましたが離しません。「お遊びにいらっしゃいな」といい、「お学校への道ですからいいでしょう」といいます。私が土手下の小学校へ通い始めた頃でした。やっと別れた帰り路に、「〆八は愛嬌《あいきょう》があって、評判がいいのだよ」とお母様はおっしゃいましたが、私は何だか嫌《いや》でした。
 それから朝学校への道でよく逢います。あの人たちは朝は遅いかのように聞きましたのに、きっと牛の御前に朝詣《あさまいり》をするのでしょう。私を見かけると、大きな手を広げて通せん坊をします。道の片端を走抜けようとしますと、また寄って来ます。嫌がるのが面白いのでしょう。私は顔を真赤にして逃出すので、夢中ですから引掻《ひっか》いたかも知れません。すぐ傍の料理屋らしい家の長い板塀に附いて、学校への道を左へ曲りますと、大きな声で笑うのが後に聞えました。帰りは友達と一緒ですし、逢ったことはありません。あまり嫌ですから、水戸邸の方から行ったこともありましたが、道のりが倍もあって寂しく、それに時間もかかりますので、仕方なしに駈抜《かけぬ》けるのでした。
 その頃の私の学校通いの姿は変なものでした。手織縞《ておりじま》の著物《きもの》はよいとして、小さな藁草履《わらぞうり》は出入の人が作ってくれたので、しっかり編んで丈夫だからと、お国から持って来たのでした。鼻緒はお祖母様が赤い切《きれ》で絎《く》けて下さるのです。日の照りつける時は、傘を持たせると忘れたり破ったりするからと、托鉢《たくはつ》のお坊さんの被《かぶ》るような、竹で編んだ大きな深い笠《かさ》を冠《かぶ》ります。その頃お兄様は絵をお書きになったので、その笠には墨で蘭が画いてありました。赤い切で縫った太い紐《ひも》が附いていて、顎《あご》で結ぶのでした。荷物を斜めに背負って、ちょこちょこ出かけますと、茸《きのこ》が歩いて行くといって笑われますが、一向平気なものでした。その荷物は、読本と縦四寸横六寸位の小さな石盤《せきばん》とで、木の枠に石盤拭きが糸で下げてあります。遣いつけたら離されません。学校へ置いて来たらといわれても、いつも往《ゆ》き返りに背負っていました。石筆《せきひつ》に堅いのと柔かなのとあって、堅いのを細く削って書くのでした。
 学校は大きな料理屋の跡らしく、三囲《みめぐり》神社の少し手前でした。立木が繁って、大きな池があり、池には飛石が並んでいました。子供たちが面白がって渡っては、よく落ちたものでした。運動場はかなり広い砂地で、細い道を隔てて田圃でした。その隅に丸太が立っていて、牛島小学校と染めた旗が附けてありました。
 冬になりますと、男の子たちは柵《さく》から抜出して、田圃の稲株の間に張った厚氷を、石で割って持って来ます。お辞儀をしてそれを分けてもらってはしゃぶりました。よく中《あた》らなかったことと思います。
 教室の数はかなりあったようです。お兄さんは上の級にいられて、成績はいいがいたずらだといわれていました。今も覚えているのは読方の時間です。先生が一くぎりずつ読まれますと、二、三十人いる男女の生徒が、一緒に続いて読むのですが、妙に節を附けて読む先生の癖をまねて、その賑かなこと、学校の傍を通る人が立止るほどでした。

 少しして小梅村へ引移りました。二百余坪の地所に、三十坪ばかりの風雅な藁屋根の家でした。それまでは何しろ往来に近い手狭《てぜま》な家で、患者が来ますと困るからです。今度の家は大角とかいった質屋の隠居所で、庭道楽だったそうで、立派な木や石が這入《はい》っていました。人の話を聞いてお父様がお出かけになって、一度御覧になったらすっかりお気に入って、是非買うとおっしゃいます。曳舟《ひきふね》の通りが田圃を隔てて見えるほど奥まった家なのですから、私の学校へも遠くなるし、来る病人も困るだ
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