お邸内に住むはずですし、また手頃な家もないではありませんでしたが、その頃のお手当はいかにも僅《わず》かなので、お兄様の学費のこともあり、私どもも出て来ますと暮しがむつかしかろうからと、わざと近い邸外に住むことにしたので、患者も少しは来ますし、往診もちょいちょいありました。近所の婆さんが、煮焚《にたき》の世話をしてくれていたそうです。
 私どもが著《つ》いた明くる朝、お父様がお出かけになるのをじっと見ていた私は、お母様の耳に口を寄せて、「あのおじさんが、何か持って行くよ」といいました。
「まあ、この子は。お父様ではありませんか。」
 皆に笑われて、真赤になってお母様の蔭に隠れました。ゆうべはごたごたしていてよく分らず、一、二年の間にすっかり見忘れたのも道理です、お写真などもなかったのですから。袋戸棚から紙入を出して、懐《ふところ》にお入れになったのを私は見たのです。
 今まで広いところで育ったのに、庭というほどのものもなく、往来に向いた竹格子《たけごうし》の窓から、いつも外ばかり眺《なが》めていました。目に触れる何もかも珍しくて、飽きるということがありません。毎日通る人の顔も、いつか見覚えました。お邸の御家老の清水さんという人が、お家にお風呂《ふろ》はあるのでしょうに、毎日お湯屋へ行かれます。小雪の降る日にも湯上り浴衣《ゆかた》で、傘をさしてお帰りです。お母様が一度|御挨拶《ごあいさつ》をなすったので知りました。著物《きもの》は持っていられません。女中でも取りに行くのでしょう。恰幅《かっぷく》のいい、赭《あか》ら顔の五十位の人でした。
 その頃のお湯屋は、長方形の湯槽《ゆぶね》の上に石榴口《ざくろぐち》といって、押入じみた形のものがあって、児雷也《じらいや》とか、国姓爺《こくせんや》とか、さまざまの絵が濃い絵具で画《か》いてあり、朱塗の二、三寸幅の枠が取ってあって、立籠《たちこめ》る湯気が雫《しずく》となって落ちています。そこを潜《くぐ》って這入《はい》るので、人の顔など、もやもやして分りません。どんな寒中でも、長くはいられないでしょう。けれども昔の人は熱い湯に這入りつけていましたし、それが幾分|誇気味《ほこりぎみ》でもあったらしいのです。
 近くにはお湯屋がないと見えて、大勢人が行きます。拍子木《ひょうしぎ》の音が聞えるのは、流しを頼むので、カチカチと鳴らして、三助《さんすけ》に知らせます。流しを頼んだ人には、三助が普通の小桶《こおけ》ではない、大きな小判形《こばんがた》の桶に湯を汲《く》んで出します。暇な人は流しを取って、ゆっくりと時を過すのでした。
 女たちも子供連れなどは昼間に行きます。よく芸者などが客や朋輩《ほうばい》の噂《うわさ》をしていました。夜は仕事をしまった男たちが寄って来て、歌うやら騒ぐやら、夜更《よふけ》まで賑《にぎ》やかなことでした。
 御家老の清水さんの奥さんのお藤さんといいますのは、大きくなってから聞いたのですが、もと殿様のお部屋様《へやさま》でした。藩主は早く夫人が亡くなられて、お子様もなくてお独りでした。お手廻りのお世話をさせるために、江戸でお召抱えになったのがそのお藤さんで、当時はそんな邸向の奉公人ばかりを口入《くちいれ》する請宿《うけやど》があったのだそうです。どんな家の生れか知りませんが、年も若く、美しくて利発な人で、請宿では隠れた処にも痣《あざ》や黒子《ほくろ》のないように、裸体にして調べたとかいいました。女芸一通りは出来たので、お国に落ちついてからは、召仕《めしつかい》に習字のお手本を書いて渡したとか聞きました。
 お国のお山の上に社《やしろ》があって、何をお祀《まつ》りしてありましたか、家中の信仰も厚く、皆お参りをするのでした。それで心願の人たちが上げた額なども多い中に、松の木に藤の咲きかかった大きな額がありました。いつ誰が上げたのか、何の願だろうかと噂をしましたが、これは清水さんがお藤さんを慕って奉納せられたので、維新の騒がしさが静まって、殿様始め重《おも》な家来たちが東京住いになりました頃、御殿を下《さが》ったお藤さんは清水さんの奥さんにおなりになったものですから、これはきっと神様の御利益《ごりやく》だったろうといわれました。それまで清水さんは、久しくやもめでいられたのです。
 その後お邸では、年二回位家中の家族を呼んで饗応《きょうおう》せられるので、向島中の芸者が接待に出ました。そんな時など、家老の奥さんだというので、溜《たま》りの間《ま》に集って控えている女たちに、「皆さん、今日は御苦労様です」と、裾《すそ》を引いてずっと通りすぎる様子などは、さすがにそれだけの品が備《そなわ》っているといわれました。私などが幾らか人の顔立《かおだち》なども分るようになってから、ちらちら話を聞い
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