した。御主人様の御趣味でしょうか。」
「いいえ、あれはここの備品なのですよ。あなたはあんな物が好き。」
よい折と声を低くして、「兄がいつも御主人様のお世話になります。正直過ぎる人なので、いっこくですから、さぞ失礼をも申すでございましょう。宜《よろ》しくお取りなしを願います。」
「いいえ、いっこくといえば主人こそお話になりません。どなたにでも無遠慮にずけずけと物をいいまして、端《はた》の者がはらはらいたします。奥様はお若いのですッてね。」
そうおっしゃったので、「はい、美しい好《い》い方ですけれど、お育ちになった御家庭がわれわれと違いますから……。」
「そうですってね。皆さんからちょいちょいお噂を聞きますよ。」
お兄様がお気になさるのは、そうした人の噂でしょう。人はどんなことをいうのだろう。もっと聞きたいと思う内に、ぞろぞろ皆さんの足音がするので、そこを離れました。
その後はさしたることもありませんかった。お兄様はお役所の仕事の御多忙の中から、創作に翻訳に絶えず筆を執っていられます。お好きなことですからお紛れになるのでしょう。その頃には長篇なども書いていられたのでした。文部省展覧会の第二部主任でしたから、洋画の鑑査もなさるので、朝上野、それから陸軍省、それからまた上野へというようなお生活でした。
大臣も御持病はあっても勤めていられたようで、お兄様の日記には陸相の晩餐会《ばんさんかい》に行く、翌日礼に行くなどと見えています。
その日記の十二月二日の条には、皇儲《こうちょ》石本陸相の身体を懸念あらせられ、岡《おか》侍医を差遣《さしつかわ》せさせ給うと聞き、岡の診察するに先だちて会見せんと岡に申し遣るとあり、四日には、官邸に行き、皇儲の思召《おぼしめし》により岡の来診の時会談して診察に立ち会うともあります。人目に附くような容体におなりだったのでしょう。年末には大臣は国府津《こうづ》に避寒に行かれたようです。
翌四十五年の一月五日の新年宴会に賜餐《しさん》がありました。その宴のまだ始まらない内に岩佐氏が卒倒せられたので、お兄様が近寄られると、岡玄卿《おかげんきょう》氏が人工呼吸をなさるので、その手伝いをなすったそうですが、ついに逝《ゆ》かれたそうです。岡氏も岩佐氏も侍医で、御陪食に参内《さんだい》せられての出来事でした。そんなお席で、大礼服を召した患者とお医者たちと、どんなでしたろうと思います。
十日が岩佐氏の葬送で、その日には大臣は帰京されたのですが、その後はだんだんと御様子が悪く、熱があるとか、舌根が腫《は》れたとか聞きましたが、四月二日についに薨《こう》ぜられました。大臣就任後八カ月ばかりでしたでしょう。
午後一時に逝かれ、三時には聖上から西郷吉義《さいごうよしみち》氏を見舞として遣されました。大臣長男、軍医橋本監次郎の二人とともに、お兄様は接見なすったのです。その日の来診者は、青山胤通《あおやまたねみち》(東大教授)、本堂恒次郎(陸軍軍医)、岡田和一郎(東大教授)、平井|政遒《せいゆう》(陸軍軍医)の四人でした。四日には石本邸へ通夜に行き、式場接待掛をせられました。大臣の後任は上原《うえはら》中将です。
月日はただ過ぎゆきます。夫人は御丈夫そうに見受けられ、お子さんも大勢お持ちのようでしたが、暫く立った後に人伝《ひとづ》てに聞きましたら、夫人も御主人と同じ病気でお亡くなりになったそうでした。人の命ほどわからないものはありません。わからないといえば、この四十五年は明治大帝|崩御《ほうぎょ》の年でした。
[#改ページ]
向島界隈
向島《むこうじま》も明治九年頃は、寂しいもので、木母寺《もくぼじ》から水戸邸まで、土手が長く続いていましても、花の頃に掛茶屋《かけぢゃや》の数の多く出来て賑《にぎわ》うのは、言問《こととい》から竹屋《たけや》の渡《わたし》の辺に過ぎませんでした。その近く石の常夜灯の高く立つあたりのだらだら坂を下りた処が牛《うし》の御前《ごぜん》でした。そこからあまり広くもない道を二、三町行った突当りに溝川《どぶがわ》があって、道が三つに分れます。左は秋葉《あきば》神社への道で割合に広く、右は亀井邸への道で、曲るとすぐに黒板塀《くろいたべい》の表門があります。邸に添って暫く行った処に裏門があり、そこからは道も狭くなって、片側は田圃《たんぼ》になります。川の石橋を渡って、真直といっても、じきにうねうねする道を行くと小梅村で、私どもが後に引移った処でした。石橋に近い小さな家に、早くお国から出て来られたお父様とお兄様(長兄)とが住んでお出《いで》のところへ、お祖母様《ばあさま》、お母様に連れられて、お兄さん(次兄)と私とが来たのでした。お父様はお手医者として、殿様のお供で上京したのですから、ほんとは
前へ
次へ
全73ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング