蓄してこんなになったのだといいます。その孫ででもありましょうか、今の主人らしい人には、卑しい様子もありません。
家に帰ると、出迎えた女が、「大変お早ようございましたね。お留守でしたか。」
「いいえ」とばかり答えて上るなり、そのまま座敷の縁側に坐って、ぼんやり庭を見ていました。南さがりになっている芝生《しばふ》に、色の褪《さ》めた文字摺《もじずり》があちこち立っています。
いつも団子坂へ行くのを楽しみにして、お兄様がお家の時は、近く買われた古本などを見せていただき、その説明をも聴いて、時の立つのを忘れるのでした。お母様のお部屋では取止《とりと》めもないことを語合《かたりあ》って、つい笑い声も立てました。暇乞《いとまごい》をすると、用がないからと、いつも送って下さいます。そのままでお出かけですから、「被布《ひふ》の上前《うわまえ》が汚れていますよ」といいますと、「こうすればよかろう」と、下前を上にして平気でいられるのを笑ったりなどもしました。そんなですから、いつも裏通りばかりを歩きます。今日はお留守でしたろう、お家なら聞きつけてお出になるのですから。でも今日などはお目にかかりたくありません、お話する気もありませんから。家に不穏の空気が漲《みなぎ》る時は、誰も誰もつつましやかにしています。昔はそうしたことなどありませんかった。私は一人でそんなことを思っていました。
その時入口が開いて、女が急いで這入って来て、「団子坂の檀那様《だんなさま》がお見えになりました」といいます。びっくりして出ると、そこに軍服を著《き》たお兄様が、いつもの微笑をして立っていられます。
「来てくれたってね。失敬した。」
私はきまりが悪く、「さあどうぞ」と上っていただいて、床の前に座蒲団《ざぶとん》を直して、「あんまり御無沙汰《ごぶさた》をしていましたから」と、呟《つぶや》くようにいいながら、違棚《ちがいだな》にあった葉巻《はまき》の箱を下して前へ出しました。私の家では質素な生活はしていましたが、主人が嗜《たしな》むので、葉巻だけはいつもあるのでした。
何といい出したものかと胸騒ぎがします。あんな様子を見られて、さぞかしおいやだろうと思うのに、私の跡を追うようにしてお出《いで》になったのはと思うと、うっかり口も開かれません。いつもお忙しいのですし、私の方からはよく伺うのですから、お出になるのはまあお正月位のものだったのです。お兄様はいつまでもだまっていらっしゃる。私も葉巻をお附けになるお手元をただじっと見ていましたら、お顔を上げて、「お前は近頃|石本《いしもと》さんに会うかい」といわれました。
石本さんとおっしゃるのは、大臣石本|新六《しんろく》氏の夫人です。お茶の水女学校の出身者の内では有力な方でした。
「あの方は会にはいつでもお出になりますから、私さえ出れば、お目にかかられますよ。」
「そうか」と、また暫く無言でしたが、「お前も知っている通り、おれは勤向《つとめむ》きのことでは人に批難をされるようなことはしないがね。ただ家庭のことで、かれこれいわれると困るのでなあ。」
苦笑せられるお顔を見てはいられません。今まで決してそんなことなどおっしゃらなかったのに、何かお気にかかるのでしょう。
「折があったら話して置いておくれ。」
「ええ、それは誰でも親しい者は知っていることですから。」
石本氏は長く陸軍次官をお勤めになって、立派なお方でしたけれど、強いところもおありになるのでしょう。重い御持病がおありでしたから、お気の立った時などはおむつかしいのでしょう。お兄様は十分控目にして、いつも謙譲な態度でいられますが、時には衝突なすったこともあるように聞きました。尤《もっと》も職務上のことについては、職を賭《と》しても争われたのは勿論《もちろん》です。
それまでの陸軍大臣は寺内《てらうち》伯で、お兄様はその信任を得ていられましたが、政変のためにお罷《や》めになって、石本次官が昇進なさいましたのは、明治四十四年八月末のことでした。九月も半過ぎでしたろうか、官邸へお移りになった石本夫人が幹事の同窓会があって、私は始めて官邸というものに這入りました。いつもより人も大勢集っていられます。きらびやかではなく、荘重とでもいいましょうか、お邸はなかなか広いようでした。あちこち見て歩く内、応接間というような室に、硝子の箱に紫色の天鵞絨《ビロード》を敷いて、根附《ねつけ》が百ばかり、幾段かに並べてありました。その頃主人が根附を集めていたものですから、つい目に附いて、立止って見ていました。外人などは、さぞ珍しく思うでしょう。あたりに人がいなくなったので控室へ戻ると、夫人が独りでいられます。
「お広いようでございますね。唯今あちらに根附がございましたので、ゆっくり拝見しておりま
前へ
次へ
全73ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング