ません。或時父がそれを見て、全く二重ですねえ、と目を見張らせます。まあ出来上りを見て下さいと、笑ってお出《いで》です。やがて張り上げると、すっぺりして立派になるのでした。昔から何に依らず質素にと心懸けて、物を粗末にはなさいません。
 私は手紙にいろいろのことを書いては、西洋の兄へ出します。学校のこと、下宿のこと、その他さまざまです。間もなく便があって、下宿はやめるがよい、おばあ様にもお気の毒だし、女の子の下宿は好ましくない、というのです。ちょうど学期の終の時でしたから、引上げて千住へ帰りました。
 これからどうして通わせようかということになりましたが、兄の出立後は、供をしていた与吉という車夫が父のになっていました。頑丈《がんじょう》な男でしたが、年を取っており、無口で無愛想なので兄のお気に入りでした。人込《ひとごみ》だろうが、坂道だろうが、止めろ、と声を掛ければすぐ止めます。用事の外は口を開きません。それが素朴でいいとおっしゃいましたが、父の病家廻りのお供としては、先々では喜ばれませんかった。それに父の病家は近くが多く、車で行くのは田舎《いなか》ばかりですから、女の子の供にはあれがよかろう、ということになりました。与吉の家内はいつも勝手の手伝いに来るので、張物《はりもの》や洗濯《せんたく》も上手にします。人の噂《うわさ》では、商売をしていたとかいいました。器量もよくないし、髪の毛の薄い小がらな女でしたが、正直なので母は喜んで使われました。与吉のことを、いつでも、「よきさあ、よきさあ」と呼びました。その頃学校は方々へ移る時で、上野の両大師の際へ引越したので、千住から通うのには近くなったので好都合でした。尤《もっと》もそれも少しの間で、また一橋《ひとつばし》へ引移り、ついに卒業まで、車でそこへ通ったのです。
 今まで噂に聞いた道々を、毎日車で通います。野菜市場の混雑を過ぎ、大橋を渡って真直に行けば南組の妓楼《ぎろう》の辺になりますが、横へ曲って、天王様のお社《やしろ》の辺を行きます。貧民窟といわれた通新町《とおりしんまち》を過ぎ、吉原堤《よしわらづつみ》にかかりますと、土手際に索麺屋《そうめんや》があって、一面に掛け連ねた索麺が布晒《ぬのざら》しのように風に靡《なび》いているのを珍しく思いました。兄のいつもお話になった秋貞《あきさだ》という家の前は、気を附けて通りますが
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