、それらしい娘はつい見うけませんかった。縁がないらしくまだ出会いません、などと西洋への手紙に書いたものです。
 そこを過ぎて三島神社の前を通ります。その横からお酉様《とりさま》へ行く道になるのですが、私はお参りしたことがありません。いつもひどい人出だとのことで、その酉の日には、大分離れたここらまで熊手《くまで》を持った人が往来します。その前日あたりから、この辺の大きな店で、道端に大釜《おおがま》を据えて、握り拳《こぶし》くらいある唐の芋ですが、それを丸茹《まるゆで》にするのです。その蓋《ふた》を開けた時にでも通りかかると、そこら中は湯気《ゆげ》で、ちっとも見えません。それくらい量が多いのです。お酉様は早くから参るのですから、前日から支度をします。その茹で芋の三つか五つかを、柳でしょうか竹でしょうか、そうした物で貫いたのを環《わ》にして店に盛り上げます。熊手を肩に、その芋の環を手にしたのが、お酉様の帰りの姿でした。
 私が幼かった頃、いつも母の膝《ひざ》の上にいたがりますので、兄は私を、おかめ、おかめ、といわれました。母が熊手で、おかめがそれに附いていて離れないというのでした。そんな詰らないことも思出されます。
 両大師の際の学校の頃は、少し早く行くと、そこらの草原は露が深くて、歩けば草履《ぞうり》の裏がすっかり濡《ぬ》れるほどでした。寒い朝そこらに佇《たたず》んでいますと、北国から来た列車の屋根が真白に雪をかぶっています。それを珍しく見ました。私どもの教室へ、まだ洋行前の幸田延子《こうだのぶこ》氏が、よく参観に来ていられました。或時遠い教場から美しい声が聞えるので耳を傾けましたが、それは後の柴田環《しばたたまき》氏なのでした。
 車で来る人は、私の外にも二、三人いました。跡は先生です。与吉は前にいったように無口ですが四、五人集まりますと、いつか与吉が親分らしく、外の車夫が手下《てした》らしく見えるのが不思議でした。私が帰る時に見ますと、外の車夫はすぐ車を引出しますのに、与吉はのっそり立上って、ゆっくりと来て梶《かじ》を跨《また》ぐのです。そんな時私は恥しくて、顔を伏せていました。腹の内では、また西洋へ書いて出す手紙の材料が出来たと思いながら。
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   兄の帰朝

 兄が洋行から帰られたのは、明治二十一年九月八日のことでした。家内中が幾年かの間|待暮《
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