ます。宅で毎日弁当に入れるものですから、一緒に作ります。いつも礼状はよこされましたが、お好きでしたか、どうですか。母は自分の好物だといって、葉蕃椒《はとうがらし》の佃煮《つくだに》などを送られましたが、きっとその方がよかったでしょう。
 漬物もよく上りました。野菜の多い夏が重《おも》です。茄子、胡瓜《きゅうり》の割漬、あの紫色と緑色とのすがすがしさ。それに新生薑《しんしょうが》を添えたのが出ると、お膳の上に涼風が立ちます。茄子をいつも好い色にと思うと、なかなか気を附けねばなりません。若い白瓜《しろうり》の心を抜き、青紫蘇《あおじそ》を塩で揉《も》んで詰めて押したのは、印籠漬《いんろうづけ》といって喜ばれましたが、雷干《かみなりぼし》は日向《ひなた》臭いといって好まれませんかった。
 冬の食物に餅茶漬《もちちゃづけ》というのがありました。程よく焼いた餅を醤油に浸《ひた》して、御飯の上に載せて、それにほうじ茶をたっぷりかけるのです。それに同感されたのは緒方収次郎《おがたしゅうじろう》氏で、この味の分らぬ人は話せぬ、といわれたそうです。大阪辺でもそんな風習がありますかしら。賀古《かこ》氏は、鯛茶《たいちゃ》、鰤茶《ぶりちゃ》とはいうけれど、これはどうも、と眉《まゆ》を顰《ひそ》められたと聞きました。晩年の兄は、甘干《あまぼし》や餡《あん》などを御飯に乗せて食べられたと聞きましたが、その頃のことは私は知りません。
 明治四十年頃観潮楼歌会といわれるのをなすった頃、その御馳走《ごちそう》をレクラム料理といいました。会の度ごとに小さなレクラム本を繰返して、今度は何にしようか、と楽《たのし》んでいられました。自分の好き嫌いではなく、作るに手のかからず、皆さんのお口に合うようにとのお考でしたろう。それを調理するのには、洋食といえば一口も食べられぬ母が当りました。相談役は私です。ただ正直に、厳重にその本に依るのでした。材料だけは選びましたから、むつかしい物でないのは、食べにくくはなかったでしょう。立派な西洋料理、などといった人もありました。
 或時大きな西瓜《すいか》を横に切って、削り氷を乗せ、砂糖を真白にかけて、大きな匙《さじ》ですくって食べていられるところへ行合せました。いつものように、傍には読みかけの御本が置いてあります。終りの年のことです。大分重態になられてからお見舞に上りま
前へ 次へ
全146ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング