したが、すぐ病室へ入るのを遠慮して、傍の部屋にいますと、水蜜桃《すいみつとう》の煮たのを器に入れて、嫂《あによめ》が廊下づたいに病室に入られました。あれが終りの頃の召上り物でしたろうか。
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   踊

 お兄様が陸軍へお勤めになった初めの頃ですから、私は小学生で十歳位でしたろう。その頃|北千住《きたせんじゅ》に住んでいました。千住は四宿といわれた宿場跡なのです。町は一丁目から五丁目までありますが、二丁目から三丁目までに青楼《せいろう》があり、大きな二階三階が立ち並んでいて、土地で羽振《はぶり》のよいのはその青楼の主人たちです。何かあると寄附金などを思い切ってするのでしたから。お父さんはそんな土地で開業していられたのです。初めは区医出張所といい、向島《むこうじま》から通っていましたが、それが郡医出張所となり、末には橘井堂《きつせいどう》医院となったのです。住いは一丁目はずれの奥でしたが、看板は表通りに掛けてありました。
 もと土地の旧家の住いだったという事で、かなり広い前庭には樹木も多く、裏門まで飛石が続いておりました。普通の住居を医院らしく使うのでしたから、診察室、患者|溜《だまり》などを取ると狭くなるので、薬局だけは掛出しにしてありました。
 昼は静かなのですが、夜になると遠くもない青楼の裏二階に明りがついて、芸者でも上ると賑《にぎ》やかな三味線や太鼓の音が、黒板塀《くろいたべい》で囲まれた平家《ひらや》の奥へ聞えて来ます。
 或夜、たしか酉《とり》の町の日でしたろう、お隣の仕舞屋《しもたや》の小母《おば》さんから、「お嬢さん、面白いものを見せてあげましょう」と誘われたので、行って見ますと、その家の物干《ものほし》から斜に見える前の青楼の裏二階で酒宴の最中です。表二階では往来から見えるというので禁止になっているのだそうで、大分大勢の一座らしく、幾挺《いくちょう》かの三味線や太鼓の音に混って、甲高《かんだか》いお酌の掛声が響きます。甚句《じんく》というのでしょうか、卑しげな歌を歌う声も盛《さかん》です。そこへ娼妓《しょうぎ》たちでしょう、頭にかぶさる位の大きな島田髷《しまだまげ》に、花簪《はなかんざし》の長い房もゆらゆらと、広い紅繻子《べにじゅす》や緋鹿《ひが》の子《こ》の衿《えり》をかけた派手な仕掛《しかけ》姿で、手拍子を打って、幾人も続いて長い廊
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