御本でしたでしょう。
落丁というので思い出されたのか、その時次のようなお話をなさいました。
昔下宿をしていられた頃、同じ宿にいた学生さんがひどく本好きで、いつも貸本屋から次々と借りて見るのです。『八犬伝』とか『巡島記《しまめぐりのき》』とか、馬琴《ばきん》の大部のものが多いのですが、それには大抵一冊に二、三個所ずつ絵があるのを、必ず一個所は上手《じょうず》に切り取るので、その頃そんな本の表紙は、浅草紙《あさくさがみ》のようで厚いのに色紙が張ってあるのですから、半紙の薄い中身は糊《のり》で附ければ跡はわからなかったそうです。それをよくも溜《た》めた事、紙の端のそそけたのを裏打《うらうち》をしても、かなりの厚さになるのに、どれだけ読んだのか察せられます。どうするのかと聞いたら、田舎の親に見せるのだといったそうですが、また器用な人で、表紙を附けて綴《と》じるのなどが楽しみでもあるらしく、「そんなことはよしたらよかろう」と、何度いってもやめなかったとの事です。
「好《い》い人なのにどうしてあんな事をしたのか、今はどんな人になっているだろう。同じ本屋から借りるのがいやだった。」
昔をお思い出しの御様子でした。
「あの頃でしょう、よく合本と分冊との話のあったのは。」
「そうだったね。」
お兄様(鴎外)は何でも同じ本は重ねてお綴《と》じになり、表紙を附けてお置きになるし、お兄さん(三木竹二《みきたけじ》)は扱いにくいから、別々にして置きたいといって、いつも争いになるのでした。お兄様は後に種々の雑誌を多く寄贈せられるようになってから、それほどでないものまでもきちんと綴じて置かれました。それが山のように溜って、いつまでも日在《ひあり》のお家にありました。
私もその真似《まね》をして、『しがらみ草紙』などを初号から揃《そろ》えて綴じて、大事にして置いたのです。大正十一年七月にお兄様がお亡くなりになった後で、全集を出すことになって、その合本を平野万里《ひらのばんり》氏が借りに見えました。何だか気が進みませんかったが、たって仰しゃるので、お兄様のためとあきらめてお貸ししました。五十九冊を製本したのを、重たそうに下げて門をお出になるのを見送りました。全集は大正十二年の八月までに七冊出ましたばかりで、あの大震災になったのです。暫くはただごたごたと暮して、何を考えるひまもありませんでし
前へ
次へ
全146ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小金井 喜美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング