るので、そこらの子供が這い上っては遊びました。そこをまだ若い土井の息子さんが、友達と一緒に馬を走らせるのが土手の上から見えました。老年になってからのお子さんで、大切になさるのだと聞きました。馬場はまた弓射場にもなっているので、月に幾日か弓袋を持った人が出入して、的に中《あた》る矢の音が聞えます。その人たちの休む仮屋が片隅の二本杉の傍にあって、賑《にぎ》やかな人声もしますが、常は静かなもので雉子《きじ》が遊んでい、夜は梟《ふくろう》の声も聞えます。二本杉は名高いもので、昔何代目かの将軍が、野立《のだて》の時|箸《はし》を立てられたのだといい伝えられて、白山上からもよく見えました。門前の松の根に休んでいますと、杉や松の梢《こずえ》を渡る風は颯々《さつさつ》の音を立てて、暑中も暑さを忘れます。人通りもありませんから、夜はよく出て涼みました。
 或夏の夜、そこに休んでいますと、暗い坂の下から歩いて来る人がありました。近寄りましたらお兄様でした。
「まあお珍らしい。さあどうぞ。」
「いや、坂下まで昨夜も来たのだが、今夜も来たからこっちから帰ろうと思って。歩いてここらを通るのは珍らしいよ。ここは涼しいね。」
 ずんずん行っておしまいになりました。吉祥寺《きっしょうじ》の方からお帰りになるのでしょう。馬場はもとより、宅の並びにも門灯の附いているのは一、二軒ですから、月もない頃で、下駄の音がまだ聞えるのに、もう姿は見えません。遠くで梟が鳴いています。いずれ本屋でしょうが、どんな御本がお気に入ったのかと思いました。御手には杖《つえ》ばかりのようでした。
 その後団子坂へ伺った時、聞いて見ました。「この間はどんな本をお求めになりましたの。二晩もつづけてお出《いで》になるのは、よほどお気に入ったからでしょうと思いました。」
「いや、あれは神田《かんだ》の方で買った古本に落丁《らくちょう》があってね。ちょうどその本があそこにあったから、買って来てそこだけ取って補充したのさ。二部は不用だし、向うは商売だから、また相手もあろうと思って、持って行ってやった帰りだった。多分その話はせずに、また誰かに売るのだろう。こっちは話したのだから疚《やま》しくはないがね。」
「そんなお客さんは滅多にありますまい。何の御本でしたの。」
 伺いましたが、「なに」としか仰しゃいませんでした、きっと私などには縁の遠い
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