が、絵草紙屋《えぞうしや》などもありますし、簪屋《かんざしや》も混っています。絵草紙は美しい三枚続きが、割り竹に挿《はさ》んで掛け並べてありました。西南戦争などの絵もあったかと思います。役者のもあったのは、芝居町が近かったからでしょう。やはり玩具屋なのでしょうか、特別に小さいお座敷の模型、お茶道具、お勝手道具と、何でも小さい物ばかり並べてあるのを、飽きずに眺《なが》めたりしました。
 小路を這入った処に小料理屋があって、新栗のきんとんがおいしいというので、その時節にはよく立寄りました。お留守をした人におみやげにするのです。五重塔のある側に綺麗なお汁粉屋があって、そこのお雑煮《ぞうに》のお澄ましが品のいい味だというので、お母様は御贔屓《ごひいき》でした。お兄さんは、お餅が小さくて腹に張らないから嫌《いや》だといわれたとて、皆笑いました。雷門前では、お父様へのおみやげに、かりん糖や紅梅焼を買います。お父様はお茶をお飲みの時、「ちょっとした菓子よりこの方がよい」と、和三盆《わさんぼん》を小匙《こさじ》に軽く召上るのですから、おみやげはほんのお愛想です。
 それから、浅倉屋へ寄ります。ここは名高い古本屋ですから、小さい子供などに用はないのですが、教科書の取次などもしていましたかしら。店の三方は天井まで棚を造って、和本がぎっしり積上げてあるのを、尊い物のように仰いだ覚えがあります。そこらには人力車が客を待っているので、「乗って行くかい」とおっしゃいますが、「まだ歩けます」といって、吾妻橋を渡ります。その真中に立って見渡しますと、さっき乗った渡舟が上流をゆるゆる漕《こ》いで通ります。鴎が幾つか、せわし気に舞っていたりしました。
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   薬師様の縁日

 私たちが向島から千住《せんじゅ》へ引移ったのは明治十三年でした。移った家には区医出張所という招牌《かんばん》が出してありましたが、それが郡医出張所と変り、ついでまた橘井堂医院となりました。最初はどこからかお医者が出張するのでしたろう。お父様も週に二回ずつ向島から通っていられましたが、あの長い土手をうねうねと、鐘《かね》が淵《ふち》から綾瀬《あやせ》を越して千住まで通うのは、人力車でもかなり時間がかかる上に、雨や風の日には道も案じられるので、やがてお邸の諒解《りょうかい》を得て、引移ることになったのです。いつか向島
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