ていましたのに、背こそすらりとしていますが、色白というのでもたく、顔立もよいとは思われぬものですから、「まあ、あの方がお若い時はそんなに美しかったの」と、呆《あき》れたようにいいますと、お父様は笑って、「若い時の美人は猿になるというからなあ」とおっしゃいました。
 清水さんは御子息さんにお嫁さんもあり、お孫さんもおありでした。お父様の病家で、よくいらっしゃいます。御殿の話などが出ますと、「私が御殿におりました時には」などと、お藤さんは平気で話されるとのことでした。お藤さんはずっと後まで御丈夫で、お心易《こころやす》くしていました。お兄様の誕生日などに、団子坂の家へお出のことなどもありました。

 東京へ来ましても、学校へ通うのにはまだ間がありますし、そこらを見て歩きたいのですが、狭い家へ荷物が著いたり、それを片附けたりするので、なかなかどこへも連れて行ってもらわれません。それでも亀井家のお墓所|弘福寺《こうふくじ》が近くにあるので、まずそこへだけはと、お祖母様とお母様とに連れられて、お参りに行きました。
 家を出て土手の方へ向って行きますと、左手は前に書いたお湯屋で、右手の広い空地《あきち》に傘屋がありました。住いは奥まっていて、広場が傘の干場でした。そこはきっと大きな家を壊した跡なのでしょう。地面に杭《くい》が一面に立ててあって、蛇《じゃ》の目《め》、奴《やっこ》、その他いろいろの傘が干し並べてありました。大きな字のあるのは商家からの頼みでしょう。小僧さんが二人、目くら縞《じま》の前掛を首からかけて、油だらけになって油引きをしていました。日が強く当るので、油の匂いがぷんぷんします。それだけにまた雨の日は、打って変って寂しいのでした。
 少し行きますと、左側は松平《まつだいら》という華族の邸でした。やはり黒板塀の門ですが、あまり大きくはありません。亀井家が四万三千石でしたから、それよりも石高《こくだか》が少かったのでしょう。でも御内福だという噂でした。松平という家は多いのですから、どこの大名なのか存じませんが、ここもお父様の病家でした。小さいお子さんを乳母《うば》が背負って、よく薬取りに来ました。そのお乳母さんが話好きで、お子さんもお父様に髯《ひげ》のあるのを怖《こわ》がらず、お菓子があると、「これはバンコ(犬)に遣ろうか、森さんに上げようか」などとおっしゃるのでし
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