た。その松平家へ往診なさいますと、奉書の紙に大きなカステラが三切れとか、立派なお菓子が五つとか出ます。ですから松平家へ往診と聞くと、お兄さんや私はそのおみやげをあてにして喜んだものです。お兄様のことは覚えません。多分もう寄宿舎でしたろう。
 松平家の正面が弘福寺です。門前に小さな花屋があって、本堂までずっと長い石畳の道でした。黄檗宗《おうばくしゅう》のお寺ですから、下にずっと瓦《かわら》を敷き詰めて、三方腰掛になっているのは支那風なのでしょう。御墓所は本堂の右手裏にありました。江戸で亡くなった方ばかりですから多くはありませんし、存外質素なのでした。お参りしてから、お祖母様とお母様とがおっしゃいました。

「もう国へ帰ることはあるまいから、内の墓所もここにしましょう。」
「百里もある遠方では御先祖のお墓参りも出来ないから、お寺へ頼んで見ましょうね。」
「静男に異存のあるはずもないのだから。」
 帰って相談した上、お寺へも頼み、お国の墓所の土を少し取寄せて、小さな標の石を建てました。私が小学へ通うようになってからは、お祖母様が散歩がてら送り迎えなどして下さる時、いつもお参りになりました。お祖父様《じいさま》は江戸からお国へお帰りの途中、近江《おうみ》の土山《つちやま》の宿でお亡くなりになって、その地へお埋めしたのですから、お国のはもっと古い仏様ばかりです。大震災後にお寺の墓地が移転することになって、亀井家のは全部掘上げてお国へ送られ、森家のは同じ宗旨のお寺をと探した末に、やっと三鷹村《みたかむら》の源林寺と極《き》まり、それまでに亡くなったお父様、お兄さん、お兄様のお骨を移しましたが、昔の小さな標がまだ源林寺の墓地の隅にあります。お祖母様、お母様のは御遺言で土山に埋めました。

 弘福寺のすぐ傍に牛の御前があります。ほんとの名前は牛島神社です。石の鳥居をくぐって社殿までの右側に、お神楽殿《かぐらでん》があって、見上げる欄間《らんま》には三十六歌仙の額が上げてあったかと思います。左側の石の手洗鉢《ちょうずばち》にはいつも綺麗な水が溢《あふ》れていて、奉納の手拭《てぬぐい》の沢山下がっているのには、芸者の名が多く見えました。それに並んで、実物よりもよほど大きいかと思われる黒い石の牛が蹲《うずくま》っていて、大きな涎掛《よだれか》けが掛けてあり、角もいろいろ結びつけてありまし
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