はまあお正月位のものだったのです。お兄様はいつまでもだまっていらっしゃる。私も葉巻をお附けになるお手元をただじっと見ていましたら、お顔を上げて、「お前は近頃|石本《いしもと》さんに会うかい」といわれました。
石本さんとおっしゃるのは、大臣石本|新六《しんろく》氏の夫人です。お茶の水女学校の出身者の内では有力な方でした。
「あの方は会にはいつでもお出になりますから、私さえ出れば、お目にかかられますよ。」
「そうか」と、また暫く無言でしたが、「お前も知っている通り、おれは勤向《つとめむ》きのことでは人に批難をされるようなことはしないがね。ただ家庭のことで、かれこれいわれると困るのでなあ。」
苦笑せられるお顔を見てはいられません。今まで決してそんなことなどおっしゃらなかったのに、何かお気にかかるのでしょう。
「折があったら話して置いておくれ。」
「ええ、それは誰でも親しい者は知っていることですから。」
石本氏は長く陸軍次官をお勤めになって、立派なお方でしたけれど、強いところもおありになるのでしょう。重い御持病がおありでしたから、お気の立った時などはおむつかしいのでしょう。お兄様は十分控目にして、いつも謙譲な態度でいられますが、時には衝突なすったこともあるように聞きました。尤《もっと》も職務上のことについては、職を賭《と》しても争われたのは勿論《もちろん》です。
それまでの陸軍大臣は寺内《てらうち》伯で、お兄様はその信任を得ていられましたが、政変のためにお罷《や》めになって、石本次官が昇進なさいましたのは、明治四十四年八月末のことでした。九月も半過ぎでしたろうか、官邸へお移りになった石本夫人が幹事の同窓会があって、私は始めて官邸というものに這入りました。いつもより人も大勢集っていられます。きらびやかではなく、荘重とでもいいましょうか、お邸はなかなか広いようでした。あちこち見て歩く内、応接間というような室に、硝子の箱に紫色の天鵞絨《ビロード》を敷いて、根附《ねつけ》が百ばかり、幾段かに並べてありました。その頃主人が根附を集めていたものですから、つい目に附いて、立止って見ていました。外人などは、さぞ珍しく思うでしょう。あたりに人がいなくなったので控室へ戻ると、夫人が独りでいられます。
「お広いようでございますね。唯今あちらに根附がございましたので、ゆっくり拝見しておりま
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