年前に或る支那人が日本へ賣りに來たことがあるが、なんでも一枚三萬五千圓といふ値段であつた。其時に魏の三體石經の拓本も持つて來た。此石經は遠からぬ昔に土中から掘り出したものであるが、後に間もなく碎けて仕舞つた。そこで碎けないさきの拓本であるといふので一枚二千圓と號して居た。
 これまで御話して來ただけでは、何だか支那趣味の骨董談のやうに聞えるかもしれぬが、それこそ心外千萬である。なるほど支那人が文字を大切にする態度には宗教がかつた處もあつて、我々としては一々支那人の通りといふわけにも行くまいが、とにかく古人が文字で書いて遺したものは美術であり、文學であり、同時にまた史料である。美術といふ熟語からが、ファインアートといふ英語の明治初年の直譯であるやうに、今日美術を論じて居る人々は、いつも西洋流の美學や、美術論や、美術史に頭が引張られて居るから、今のところではよほど偉い人で無い限りは、東洋の美術といふものに理解が薄い。ことに文字が東洋の美術の中で占めて居る殆ど最高の地位については、まるで無理解な人が多い。けれどもこれも東洋人が今少し落附いて物を考へる時が來ると共に次第に理解せられる時が來ると
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