口、同國當勝郡勇洞村、洞村、同郡トンケシ、同國廣尾郡茂寄村、日高[#「日高」に傍点]國幌泉郡油駒村、同國靜内郡有良村マブタ山、同國沙流郡上ピラトリ、膽振[#「膽振」に傍点]國勇拂郡鵡川川筋カイカウン、同國白老郡苫小牧村、同國千歳郡|漁《イサリ》村、同國室蘭郡室蘭。以上所に由りては數十或は數百、群を成して存在するもの故、竪穴の總數は甚だ多きものと知るべし。是等悉皆同性質のものなりや否や斷言《だんげん》し難《がた》しと雖も、石器時代に屬するもの夥多《かた》なるべきは疑ひを容れず。([#ここから割り注]余が知れるものにして石川氏の表に漏れたる地名は日高國靜内郡|下下方《シモゲハウ》、釧路國仙鳳阯及び厚岸邊[#ここで割り注終わり])余は緒言(本誌第九十號に在り)に於て、コロボックルなる名稱《めいせう》は、アイヌが其先住者に與へたる綽名《あだな》の一にして、此他にも種々の異名有りとの趣を述べしが、此所に其一二を説明して住居考《ぢうきよかう》の材料《ざいれう》とせん。或る地方のアイヌはコロボックルの事をバトイチセコッコロカモイと云ひ或る地方のアイヌは之をトイチセクルと云ふ。前者は「土の家を持つ神」の義、後者は「土の家の人」の義、共に土中に住居する者の謂ひなり。アイヌは竪穴を指して先住者の遺跡《ゐせき》とし、又此の如き名稱を彼等に與ふ。北海道に於けるコロボックルの住居の竪穴たりし事は確信《かくしん》して可なり。
日本本州に於けるコロボックルの住居《ぢうきよ》は如何。口碑《こうひ》遺跡《ゐせき》共に存せず、固より明言《めいげん》するの限にあらざれど、常陸風土記所載《ひたちふうどきしよさい》の一項は稍|推考《すいこう》の手掛《てが》かりとするを得ん。同書那珂郡の條下に曰く「平津驛家、西一二里有岡、名曰大櫛、上古有人、體極長大、身居丘壟之上、採蜃食之、其所食具、積聚成岡、時人取大※[#「木+(夸−大)」、第3水準1−85−49]之義、今曰大櫛岡、其大人踐跡、長卅餘歩、廣廿餘歩、尿穴跡可廿餘許、」
大櫛今又大串と改稱《かいせう》して東茨城郡に屬せり。地勢《ちせい》に由つて考ふるも「其所食具、積聚成岡」と云ふ文に由つて考ふるも、此地に貝塚有りしは事疑ふべき理由《りゆう》無し。八木奬三郎氏の實見談《じつけんだん》に據れば此岡の麓には今尚ほ貝殼《かひがら》點々散布《てん/\さんぷ》して、曾て一
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