大貝塚有りし證跡《せうせき》を留むと云ふ。此地海岸を距《さ》る事凡一里。風土記の成りし頃は海水《かいすい》の入《い》り込《こ》み方今日よりは深かりしなるべきも、岡の下迄は達せざりしならん。鹹水《かんすい》貝塚は元來《ぐわんらい》海邊《かいへん》に在るべきものなれど年月の經《た》つに從ひ土地隆起《とちりうき》の爲、海水退きて其位置|比較的《ひかくてき》内地に移る事有り。此理《このり》を知らざる者は海を距《さ》る事遠き所に於て鹹水貝殼の積聚《せきしう》するを見れば頗る奇異《きゐ》の思ひを作すべし。大人云々の説有る盖し此に基因《きいん》するならん。果して然らは所謂「大人踐跡」とは何者を指すか。余は之を以て極めて大なる足跡《そくせき》の如きもの即ち竪穴に類したるものとなす。余は釧路貝塚の近傍に於て實に大人の歩《ある》きたる跡とも形容《けいよう》すべき數列の竪穴を見たり。常陸風土記所載の「大人踐跡」なるもの或は同種類の竪穴の群ならんか。「尿穴跡」と云ふものも亦一の竪穴ならん。北海道現存の竪穴中には長徑十間に達するもの無きに非ず、二十歩三十歩等の數|敢《あへ》て怪《あや》しむに足らざるなり。以上の考へにして誤り無くんば、常陸地方に棲息《せいそく》せし石器時代人民も北海道に於ける者と等しく竪穴を以て住居とせし者と思惟《しゐ》すべきなり。
余は全國の石器時代人民が悉皆竪穴に住居せしや否や明言する能はざれど、彼等の住居《ぢうきよ》として余が今日迄に知るを得たるは竪穴に關する事實のみなるが故に、コロボックルの住居は如何なるものかとの問に對しては、少くとも或る地方に於ては竪穴なりしなりと答へんとす。
●竪穴
北海道現存の竪穴は、前にも述べし如く、二疊敷より五十疊敷位の大さにて深《ふか》きは人の丈位《たけぐらひ》なるが、周壁の上端は地面よりも高く盛《も》り上《あ》がりて堤《つつみ》の形を成し居るもの故、摺《す》り鉢《ばち》を土中に埋《うづ》めて其縁《そのふち》の部を少し高く地上に露《あらは》し置けば竪穴の雛形《ひながた》と成るなり。土壁の部の深さを六尺位にせしとする者は、先づ地面を四尺計り堀《ほ》り下《さ》げ、堀り出したる土を以て高さ二尺計りの堤を築き廻らせしならん。堤の一部分には切り開きたる所有り。出入口なるべし。竪穴の形は方形、長方形、圓形、橢圓形、瓢形等にて一つの穴の大さは八
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