ましたもので、何だかひどく心配になり、早速都へ舞い戻って、あの姉小路《あねこうじ》のお宅へ伺《うかが》ってみたのです。……ところが、どうでしょう! いらっしゃいません! お家は空っぽです! さあ、驚きまして、手前、その晩は夜通しあっちへ行ったりこっちへ行ったりして文麻呂様をお探し申しました。……ようやく、あれはもう東の白《しら》む暁方《あけがた》頃でございましたろうか、……旦那様、手前、文麻呂様があの鹿《しし》ヶ|谷《たに》にあるお母上様の御墓所の近くに、死んだようになって倒れていらっしゃるのを見つけたのでございます。すっかり旅姿に身を整えられて、気を失っていらっしゃいました。
綾麻呂 どうしたと云うのだろう?
衛門 どうしたと云うのでございましょうか、手前にも皆目《かいもく》分らないのでございます。それでも、手前が介抱《かいほう》しております内にやっとお気がつきになりましたが、……もうまるで、魂がなくなったように、空《うつ》けた顔付をなされて、ぽかんと手前の顔を凝視《みつ》めていらっしゃいました。しばらくは、そのまま、何だかわけが分らないような御様子《ごようす》でしたが、そのうちに何を思い出されたか、急にぽろぽろ涙をこぼされて、……「衛門! お父様の所へ行こう! 一緒に東国へ行こう!……」と、うわごとのようにこうおっしゃって、手前の腕にすがりつくのでございます。手前も、初めは何だか狐につままれたような気持でございましたが、ま、とりあえず、手前の家でしばらく介抱申上げるのがよかろうと、こう、思いまして、早速それから瓜生《うりゅう》の山の家にお連れ申したわけでございます。そのうちに文麻呂様は間もなくお元気になられました。御身体の方はそう云うわけで、すっかりもと通りになられましたのですが、どうしたものでしょう、あの方は以前とは打って変ってあのような無口なこわいお方になってしまわれました。手前どもが何かお伺《うかが》い申しても、さっぱりお答えにならず、一日中部屋の中に引き籠《こも》って何やら物想いに耽《ふけ》ったり、一生懸命書きものをなさったりしていらっしゃる御様子でございました。どうしてああもさっぱりと都の生活に愛想を尽《つ》かしておしまいになったのかは手前などが詮索《せんさく》しても仕方がございませんが、……手前にはどうしても解《げ》せぬことがひとつあるのでございます
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