#小書き片仮名ヱ、428−6]ッと忌ま/\しさうに舌打をして帰つてしまふのであつた。
 二人のマルクス(私達夫婦はこの二人の青年をマルクスと呼んでゐた)
 二人の青年が、私の家の玄関口を訪れたとき、妻は例の台詞でこのマルクスのお札売を追払つてしまはうとしたのであつたが、二人のマルクスは、一足飛に室の中に襲ひかゝつて来て、盛んにしやべり立たのであつた。
 一人のマルクスは瘠せこけてゐた。いま一人は肥えてゐた。
 肥えた方のマルクスの懐が妊婦のやうにふくらんでゐた。
 肥えたマルクスは、懐中からそのふくれたものを取出て
 ――ぢやらん、ぢやらん、ぢやらん。
 それはタンバリンであつたのだ。
 しきりに鈴を鳴らし始ると、いま一人は古ぼけた皮の鞄の中からポスターを取出て、私の室中にその毒々しい極彩色の絵や統計の描かれたものをべた/″\貼はじめた。
 ――なんといふ遠慮のない人達でせうね。
 さすがに妻は驚いた様子であつた。
 彼等が帰ると、私も議論に疲れそして彼等のいつてゐることが、いかにも真理のやうに考へられて、瞬間興奮を感じた。
 しかし彼等が、霰に頭を打たれて、暗いなかに立去つてしまふと何もかも馬鹿らしくなつてしまふのであつた。すべてが冷静に、憂鬱なもとの姿に還つてしまふ。
 その翌日も、その翌日も、二人のマルクスは私の家をつゞけさまに襲つた。
 そして火のように熱心な態度で私を説き伏せようとしたのであつた。
 鴉、犬、牛、そして二人のマルクス。
 私の静寂な家を訪ねるものはこれだけであつた。
 凡太郎は、いつの間にか二人のマルクスにすつかり馴れてしまひ、抱かれて笑顔をみせたり、ついにマルクスの膝の上に小便をひつかけたりした。
 ――我々の聖なる父、マルクスは。
 彼等は賑かに聖なる父の名を呼つゞけた。
 凡太郎は円い眼をして、この若い来客の、議論の口元の動くのをじつと凝視してゐた。
 足を踏み鳴らし、そして又もや霰に、頭を打たれながら、二人の客は、暗い中を帰つた。
 マルクス主義が、我々夫婦の実生活にどんな役割を演じようとするのか、それは我々家庭にとつて『摺鉢』や『大根おろし』よりも不用な物。愚にもつかない信仰であるのだ。
 私は不意に形容の出来ない笑ひがこみあげてきた、次に滑稽な不安が頭をもたげた。
 凡太郎の次の言葉。突然凡太郎が『マルクス』などゝ叫びだしたなら
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