の文章を読んだとしたら、翻訳家の態度のアイマイさに、暗澹となる筋合のものだ。土井氏の考へ方では、原書を翻訳するといふことを『原物歪曲』といふ風に解してゐる。その馬鹿丁寧で、良心的な態度は悪くはないが、原書を『原物』とみるといふ考へ方そのものは、神社から借りてきた原物的御神体を、内証でそつと模造するやうな、神秘的懺悔で原書なるものに接してゐることで滑稽極りない。
▼その非科学的態度、心理的かさ[#「かさ」に傍点]かぶりの翻訳家に対しては、しつかりし給へと冷水の三斗も頭からかぶせて覚醒させてやりたいものである。
▼いま翻訳家達は、原書をそのまゝに伝へることの絶望に到達し、日本的歪曲を避ける為に苦しんでゐる一派と、それに対して出来るだけ日本的な原物を把握して、焦点方向線を世界文化に提供する義務があるとする一派と、二大別することができるだらう。そして両者共理窟はともかくとして、原書は原書のまゝ翻訳することはできないといふ、諦めの精神に立つてゐることは同じである。
▼さうした翻訳界の危機に際して、『キュリー夫人伝』はこれまた朗らかな翻訳風景である。川口篤、河盛好蔵、杉捷夫、本田喜代治の共訳
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