て、単なる自己擁護の方便程度の、多分に功利的なものの含まつた主義だ、今になつて青野氏が新人に対して温情主義にすぎた誤りを悔いてゐるのは真の温情主義でなかつたことを自己告白してゐるものだらう。
大雑把な愚策
支那語正科説に就て
▼パアマネント禁止説とか、中等学校で支那語を正科にするといふ説は、今の処風説に止まつてゐるが、この種の噂が民衆の間をとびまはつてゐる時、問題の本質的解明は依然として残されたまゝである。パアマネントの方は婦人達の失笑をかひ、二三の駁論もでたやうだ、然し婦人の結髪統制は噂にすぎないだらう、何故なら婦人の頭の格好まで、国家的見地からあれこれと指図するやうな、尻の穴の小さな為政者はゐないだらうからである。
▼後者の支那語正科説は噂としても、事実としてももつと現実性を帯びてゐるし、殊にこれに付言して『英語を廃して』などといふことになると、一層この風評に対する正統性を考へてみる必要があらう、この支那語正科説は大局的には一応の妥当性を帯びた、ごもつとも説であつて、実際には実行の意義の少いものだといふことが判る。
▼この噂の出方といふものは、これも現下の『支那論の貧困』の一つの現れであり、支郡を理解するには先づ支那語を――といふ素朴な見方に樹《た》つてゐる、これらごもつとも説の生み手は、身振の大きな所謂我国の『支那論客』あたりの当局への献策などから端を発したものだらう。
▼自国語の他に、他国語を習ふなどといふことは、軽々した努力ではできないし、学習の意義を初めから根本的にたてゝやる必要がある、大体に言語は文化の高い国の方の言語を習ふことが原則であつて、日支関係は切実な現実問題であるとはいへ、支那を理解せよ――といふ一本槍から、正科などといふ全国民的規模にまでして、文化的にもまだ低い支那語を習はせる必要が果してあるかどうか、支那の理解に支那語の習得は大いに必要であるし、又賛成であるが、正科説などといふ大雑把な満州浪人的政策よりも、特殊教育の域で政策を実質化した方がよからう。
新劇の無系統
「春香伝」と婦人客
▼御時世のせいもあるが最近の新劇は、その上演ものが全く無系統であつて、脚本の選び方をみても、その劇団の特長を永続させてゆくために、成程斯ういふ戯曲を選んだのだなと思はせるものがない、脚本の選び方が無方針であらうが、無系統であらうが、
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