主観』『客観』といふ二つの言葉以外に持ち合せがないのであるが、然も主観、客観といふ言葉の使ひ分けを、一方が一方を陥し入れるために、つまり善玉、悪玉程度に置き変へるやり方は、飛石評論で、二つの石をあつちこつち飛び移るだけの、これまでのプロ作家、評論家の方法で、今更中條氏にその蒸し返しを望みはしない。
 ▼『文壇的文学を主観的傾向のものであつたと見ることができるならば、現今言はれてゐる文学の大衆化は、文学の客観的価値の押し出しである――』と中條氏はいふ、現在の文学の求めてゐるものに、主観とか客観とか二等分して、それを押し出すとか、引つこめるとかいふ、それほど彼女のいふやうに簡単にいけば問題はない。


新人とは何か
 青野温情主義を悔ゆ

 ▼新潮新年号には『文学陣の新人』の題下に、青野季吉、本多顕彰諸氏それぞれ新人論を述べてゐる、本多氏は新人とは何か――といふことに就いて、全く懐疑的であるから、態度としてはむしろはつきりしてゐる、それに反して青野季吉氏の新人に対する考へ方は、その文章全体が甚だお座成り的であるとともに、論理もまた不徹底である。
 ▼『私はいまの文壇がいつたいに新人を評価する基準が低く、或る高いものを新人に要求する厳しさに乏しいのを遺憾に考へてゐる――』と青野氏はいふ、かういふ言葉は一見条理だつて見えるが、それは文壇機構の機微に触れる必要のない一般読者に投げあたへるにはもつてこいの言葉である、然しかうした言葉が正当に理解されていゝ時もある、それは門戸開放の文壇の場合だけであらう。仮りにも文壇への『登龍門』などといふ嫌な言葉が存続する以上、新らたに登場してくる新人の本質を守つてやることよりも、それを無に帰せようとする操作の方が、はるかに多いだらう、その意味から青野氏の言、文壇が(正しくいつては文壇人が)新人を評価する基準が低いどころか、高すぎる位だ、新人に要求する厳しさもまた充分すぎるだらう。
 ▼文壇は文章の上や、雑誌面だけは自由主義国だが、人間関係の上で、これ以上封建的なところはなからう、青野氏は『私など新人にたいして長らく言はゞ温情主義をとつて来た一人で、これは私の性格的なものであるが、その誤りがこの頃になつて犇々と身にこたへるのである』と結んでゐる、温情主義とか厳格主義とかいふものは、それが本質的なものでない場合、世の生き方の通俗的な方法にすぎなく
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