の論評は一切待つたなしにしたい。
▼小林君はドストヱフスキイ論では僕に「待つた」をかけながら、「菊池寛論」をやることでは、「待つたなし」でやることは、身勝手といふものだ、菊池氏が「僕の仕事が終つてから何とか言つて貰ふことにしたい――」と言はなかつたのが幸である。
▼いゝかげん小林式の二枚舌で読者を混乱させることは、この辺で切り揚げた方がいゝと思ふ。文士といふ特殊的存在が、理屈をいふ技術と、いささかの文字を弄する自由をふるまつて、無論理的な言説をまき散らすといふ現象に、読者が何時まで堪へ得られるかといふことは問題だらう。
▼然し時代は「待つたなし」になつてきてゐるし、文壇のこれまでの八百長性や、中途半端性は、文壇仲間は知らず、大衆の良心性がその存続をこれまでのやうにゆるしてはをかないだらう、作家の言説に、矛盾が現れてゐればゐるほど作家らしい――などといふ作家タイプはもう新しい時代のものではない、小林秀雄といふ人間的矛盾は、もう売り物にはならないといふこと、もし今後も売品たり得るとしても、一般大衆が経験してゐる真実の社会的矛盾の、その圏外に、勝手に小林が売つてゐるだけといへよう。
▼最近の小林秀雄君や、林房雄君達文学界一党の言説を見ると、今ではこれらの人々の言説は既に「無邪気ではない――」といふことを痛感させるものが多い。
中條の飛石評論
忠実なる読者の声
▼中條百合子氏が新潮五月号で『文学の大衆化論について――』一席弁じてゐる、この論文の内容に就ては只単純に『御説の通り』と言ふより他に仕方があるまい、左様に例の調子でプロレタリア評論家の通弊的な説得的な態度である。
▼近来の中條氏の評論の所謂『評論用語』なるものは、全く概念的なものの羅列にすぎない、文章の果たす啓蒙的役割といふものが、もし何時も同じやうな調子で、同じ内容を語つてゐて差支ないものだとすれば、中條氏の文章を、始めて読む読者だけは、大いに彼女の進歩性に感動するだらう、しかし再三中條氏の文章に接してゐる忠実な読者にとつては、論者の反覆性にはがまんがならないものがある。
▼然し中條氏が生きた文章を書くことが目的であつたなら、その文章用語は、生きた現実との照応に於て、何等かの新しい意義を与へるために、自らものの言ひ方に、一工夫も、二工夫もあつてよろしからう。
▼彼女は自己の認識を語るのに、『
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