する態の猿であつた。関雪の猿と較べると、全くちがふものがある。関雪の猿の顔はまるでインテリゲンチャのやうに聡明な顔をしてゐる、磨きのかゝつた顔をした猿が描かれてゐる。華楊の猿は決してさうした近代的聡明な猿ではなく、何かの拍子に奇声を発して、歯を剥きだすといつた行儀の悪い猿なのである。さうした野の猿や、可憐な鹿を描いたことに依つて彼は世間的には動物画家のレッテルが附けられてゐるのである。しかしこゝで華楊はその描くところの猿を、関雪風に、磨きのかゝつたインテリゲンチャのやうな猿を描くことができないかどうか、さうしたことの不可能なほどに、作者華楊自身が野趣的であるかどうか、前にも「洋犬画」の個所で述べてあるやうに、華楊は結構ハイカラな猿も描くことができるのである。では何故に彼はさうした風に描かないか、そのことは作者自身の考へ方であつて、第三者の我々の立ち入つてとやかくいふべきではない。ただこゝに「白雉図」があり、「素秋」があるといふことを発見して、華楊の人知れぬ勉強ぶりをこれらの作品から求めることができ、華楊再認識の手懸りともなるのである。「葉桜」や「畑」の徹底的写実の方法とは別に、そこには開拓された別な境地を「白雉図」や「素秋」から発見することができる。この作品は「白雉図」に於いては、平面的であるが、素秋に於いては、全く立体的、空間的なのである。其の点に於いて、華楊の人気は、その作品が凡庸のやうにみえて、ピリッとした何かゞあるといふ実力的なものの、連続的な人気なのである。中村大三郎氏は華楊を評して、この作家には二つの勝れた点があるといつてゐる。その第一は「描かれる動機が純粋であつて、自然に対する感激の素直な流露がある」といふことと第二の点として「他の一つは技巧のたくみさである」といつてゐるこの評は当つてゐると思はれる。殊に後の部分、「技巧のたくみさ」を中村大三郎氏が挙げたことは、さすがは専門家の見方なのである。世間では多くは華楊氏の第一の「純粋」「自然」「流露」さうした点を特長として、華楊の佳さを認める。しかし第二の技巧の点はとかく見遁がされ勝である。ことに華楊の場合の技巧は、所謂技巧としての露出がないために、一層そのことは、技巧の問題としての取り上げが困難なのである。「素秋」に於いて、その作品から不思議な感銘をうける。それはこの作家はどうしてこのやうに的確に空間を描き出し、距離を描き出し、形態の面白さを描き出すことができたかといふ点である。しかしそれは直ぐに解決をすることができる。山口華楊といふ作家は、いつたい誰の門に居たかといふことを考へてみたらわかる。彼の師が西村五雲であつたといふことを想ひついたらいゝ、華楊といふ作家は、五雲の画風を如何に摂取したかといふことを考へてみたらいゝ、俗に親に似ない鬼つ子といふ言葉がある。華楊はその作品、作風の一寸と見では五雲の形式とは似てゐない。鬼つ子である。五雲の作は、ずつと躍動的であるし、それこそ才気煥発である。自然の変化を極度に追求した点がある。華楊は五雲に師事しながら、五雲のこれらの方法とは全く違ふ、似てゐない。然し私は前の稿で、華楊もまた才気煥発だと述べてゐる。その理由を明らかにしよう。華楊は五雲門のうちでも、最も五雲の方法を摂取した一人ではないかと思ふ、それは画風としては、師のものを継いでゐない。それはあくまで華楊のものである。しかし方法、手段の点では五雲の方法が、まことにこなれて取り入れられてゐると思はれる。描かれてゐる部分と、描かれてゐない部分との画面上での抱合、この巧みさは五雲独特なものがある。華楊もその点実に五雲的な巧みさなのである。線の発展の追究的なところも、五雲の態度とそつくりなのである。トコトンまで一本の線の流れるところ、描かれてゆくところの究極的まで押してゆくといふやり方は、五雲の方法であつた。五雲はそれを写実的方法といふ重厚な方法として、線の行き先きを見とどけるといふ方法をとつたのではない。五雲は五雲の抽象的な手段としてそれを行つた。従つて五雲は思ひもかけぬ図柄を我々の眼の前に提供し、次の作品が予測できないやうな変幻の妙を示した。五雲の絵の派手で、そして優れてゐるのはその理由に基づく。華楊の場合は、師の五雲の芸術上の抽象化を避けて、その五雲の方法を写実的方法といふ限界の中で行つたといふ相違があるのである。そのことは華楊もまた時代の子であり、若い世代の心理の洗練を、その現実主義としてうけてゐるのである。着実な手段を選び、煥発する才気をじつと抑制する力はこれまた作家の実力の一部といふことができよう。一本の線を描かうとするその線の辿る路に、相触れて拡がり、またはせばまつてゆく空間の変化、この描かれた部分と、描かれない部分、線の実在と、非線の非実在この調和抱合、その追求態度さうしたものは、華楊にとつては、唯一の芸術的手段であり、これはまた態度として失つてはならないものであらう。その点こそ、五雲の本質の正しい意味での継承といふことができるであらうし、五雲もまた良きその本質の継承者を山口華楊といふ作家によつて得たことになるであらう。
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小杉放庵論


 小杉放庵氏の仕事も、最近では俗に言ふところの「呼吸ぬき」をしてゐるかのやうに思へる、ながい緊張感の間、あひだの休息といふ怠惰の伴つたそれではない。彼は不断に張り切つてはゐるが、それでゐて彼流の呼吸ぬきといふものもあらうといふものである。私のいふのはさういふ意味での呼吸ぬきといつてゐるのである。軍隊の方の用語に、「小休止」といふのがある。行軍の間のほんのちよつとした休息を指さしていふ。この僅かの休息の時間に、兵隊達はそれぞれその最も有効な休息の方法を採る。或る兵士は水を嚥むことに一生懸命になつてゐれば、或る兵士はいきなり靴を脱いで、足を休めてゐる。或る兵士は、いきなり仰向けに寝転がつたと思ふと、もう高いびきである。
 兵士がそれぞれ独特の休息法を採るやうに、芸術の戦士としての小杉放庵もまた、時には小休止する。現在がその期間であるかのやうな印象をうける。ただ興味のふかいことは、小杉放庵の呼吸ぬきは、「本朝道釈」のやうな作品を生み、この呼吸ぬき作品がなかなか風味が良いのである。
 横山大観にはこの呼吸ぬきで妙味ある作品を描くことはできない。大観は仕事の感情を盛り上げてゆく、今度の陸海軍への報国的制作、海と山とに因んだ二十点などは、さうした感情状態でできあがつた作品である。放庵には感情を盛りあげてゆくといふ時代は、既に終つたかのやうに思へる。感情を盛りあげて制作してゆくが、その頂点において横に逸脱するといふことができる。ただこの逸脱が単なる逸脱に終らないといふことは、その制作を不断に反覆してゆくといふ、非常な精力的な仕事ぶりが値打があるのである、もし放庵にして作品が少なかつた場合には、彼の仕事は作品が多いといふ場合よりも値打が附くであらうか、それは問題なのである。放庵の場合は作品が多いことが、彼の価値の一部といふことができよう。彼は小休止するときも、筆を停めない、そして「本朝道釈」のやうな、呼吸ぬきの、肩の凝らない、それでゐて内容的には非常に凝つた作品を見せてもらふことができる。然も数多く、そのことは観賞者の一つの幸福といはねばならない。「本朝道釈」の中の一人物に芋銭を加へてゐるのなどは、如何にも放庵の理解の面白さがでゝゐる。私が日本画家であつたら、「新本朝道釈」を描いて、芋銭の次に放庵を描くであらう。放庵そのものも確かにさうした人物の一人に加へても差支へはなからうし、またさうした人物と共通した「人生の味」を体験してゐるといへよう、芋銭の作品もこれはまた人生を呼吸ぬき、肩ぬき、肩透かし、うつちやりの連続で生き抜いたといふ感を抱かせる。彼の作品の妙味や値打は、その作品一つ一つに就いても言ふことができるがその作品の数多いといふ事も値打である。放庵は芋銭のやうにはいかないだらう。芋銭は自分の尻の穴まで解放した。野放図な人生の渡り方をした。画きなぐつたやうな作品が多いが、このなぐり画きに生命感が横溢してゐるから妙である。作品の数が多く、その数の多いといふことが少しもその作家の価値を下げないといふ境地に、何等かの形で到達してゐたわけである。しみつたれに一枚の絵に筆を加へて、そして出来上つた作品が大したものでもないといふ場合のことを考へていゝ、精神力も肉体力もしきりに出し惜しみをしてゐる日本画家が多い折柄芋銭のやうな人生度胸があつて始めて「人間としての画家」といへるのであるまいか、興味ふかいのは今後の小杉放庵そのものの「人間味の出し方」である。「人間放庵」といふ形容はよく耳にするところである。しかし何が故の人間放庵であるかといふことを説かない、放庵といふ一人物は、それが如何なる形に於いて人間的であるかといふことを、我々はお世辞抜きにして考へてみたいのである。
 その日常生活に於いて放庵は、まことに人間的であるのか、或は画風の上に人間味があらはれてゐるのか、その何れであるかといふことを分明にしてゐない。芋銭が人間的であるといふことに就いて、彼の日常生活の逸話風なものや、ゴシップ風なものはよく聞くことである、しかしそれは浅い興味をひいても、深い興味をひくことはない。その日常生活に問題があるのではない。芋銭の作品そのものに問題があるのである。いま放庵を論じ放庵の人間味を論ずる場合には私は日常生活を少しも知らないから、そこから放庵人間論の材料を求めるわけにはいかない。矢張り過去、現在の放庵の作品から、それを求める以外に方法はない、私は放庵の人間味を求めるとき、いま一人の人物を想ひ出さずにはをかない。それは小杉未醒といふ人物である。この人物の油絵は「杣」といふ作品にせよ「水郷」といふ作品にせよ、百パーセントに人間らしさが現はれてゐるのである。テーマを杣夫とか漁師とかに取材するといふ庶民性は、作家の態度として非常に正しい高いものであり、その写実主義的方法は現在に於いても立派に通用する方法であり、また見渡したところ、未醒ほどの写実力をもつた作家は現在の洋画壇には見当らないと思へるほどである。洋画壇でも何々主義、何々派といふ流派的な変遷があつてその意味では、未醒はこれらの新しがり屋共と現在まで行を共にすることは不可能であらう。然し庶民間テーマに基いた写実主義で、もし未醒が現在まで押し切つてゐたとしたら、洋画壇に在つての一権威として存在するであらう。一つの実体から、二つの影像が浮き出したやうに、小杉未醒といふ人物の中から小杉放庵といふ人物が現はれたのであるか、或は小杉未醒といふ人物の中から小杉放庵といふ人物が生れだしてきたのであるか、そしてその途端に小杉未醒といふ人物が消滅してしまつたのであるか、或は現在に於いても未醒と放庵といふ二人の人物が存在するのであるか、私はそのことを興味ふかく考へてみたいのである。
 洋画を追求した未醒は、日本画に転じて放庵と改名した。これは二人の人物ではなくて、一人の人物のことである。曾つては未醒と呼んだこともあるといつた。一般的な理解はそれは一般的な理解で納得する人にだけまかしてをけばいゝのである。私は未醒の洋画から放庵の日本画への移行といふものを、もつと追求して考へてみたいのである。もしこんなことができるのであつたら、小杉未醒といふ洋画家にいままで洋画を追求させてこさせたかつたし、また小杉放庵といふ日本画家にも、日本画の追求をつづけてこさせたかつたといふ、殆んど不可能な慾張りな希望をもつてゐるのである。その希望は殆んど夢想的なもので、また夢幻的な不可能な希ひである。しかし幸ひにして、後者としての日本画家放庵は、生きつづけてきてゐるし、仕事を連続的にしてきてゐるのである、しかし一方未醒はその実体が時に距たれて、影うすく、また全く存在してゐないのである。
 洋画を自個の芸術の手段とすることに、不満を感じて日本画に転じたものであらうかといふ疑ひは、洋画家から日本画に転じた
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