壇的位地がながく続くといふことの中には、現在の日本の画壇の現状では、画の出来不出来を度外視した、政治的工作といふものが、相当に有効な場合が多いからである。大智氏の場合の押し方の性質は、かゝる世俗的意味のものではない。従つて『押してきた』といふ言葉にとつて代るべき世俗的言葉はみつからないのである。またかゝる言葉はこの作者には適用できない。
世間で大智勝観氏の『解脱者』だと評してゐることには、たしかに一面の当つた批評ではある。しかしこゝで日本画の解脱性といふものを考へてみれば何も不思議ではないのである。『解脱』といふ言葉を人柄に押しつけずに、ちよつと許り批評家が、頭を使ふことを億劫がらずに作品にふりあててみるときは、大智氏の作品の本質問題にふれることができよう。いまこゝに三人の作家を取り合してみよう。酒井三良氏と、磯部草丘氏と、大智勝観氏と、そして私がこの三人を列べたといふことは、出鱈目に選んだのでも、悪戯心から組み合したのでもない。それは大智氏が他の二人に較べて『解脱』といふ古めかしい形容にふさはしい作家であるかどうかを調べてみたいので、さうしたのである。
酒井三良氏の作品の問題点は
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