する、伊東深水氏の考へ方の正統性である。
日本画の表現は古来ずいぶん思ひきつて突飛なものがある。この表現方法のみをみると、いかにも表現の奔放自由を作者が認めてゐるかのやうに受けとれる、伊東深水氏は鏡獅子の作中の女の獅子頭をもつた右手を思ひきりあげて描いてゐることに就いて「女の右手があんな頭上に挙る筈がないのですが、あゝしなければ、鬼気にひかれまいとしてゐる女の気持ちが出せないものでした」と言ひ、更にかう続けてゐる「裾としてもさうですが、然かさやうに翔るわけもないのにあれ程にしたのは、」「要するに静止した画面に、リズミカルな動感を盛らうが為めの手段に外ならないのです――」といつてゐる、伊東氏のこの最後の言葉こそ、けだし至言といふべきだらう、伊東氏は日本画の本質、ことに表現の自由奔放が絶対的なものでなく、ただ静的芸術としての日本画に於いては、その表現の自由性の可能がなければ、静的なものに極度に動的な表現を与へることができないものだ――といふことを言つてゐるのである。ただ徒に奇矯をてらつて袖や裾を翔がへさしたものではなく、静的なものを動的なものに転換するには、さうした形態がどうしても必要だ
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