ふのが正しいのである。
 その意味で、春陽会、国展の絵画の沈着き方が、必ずしも芸術の腰が抜けてゐるとは一口に言ひきれないものがある、要するに『激情的なものの価値の高さ』は時には円満な高さに於ても果たせるといふことが、問題として残つてゐる。
 それこそ高い意味での『完成性』といへるだらう、春陽会、国展は、その意味であくまで写実性に喰ひ下つてゆくといふ態度に、強味と弱味とを同時に備へてゐる、そして如何に今後仕事を進めて行つていゝか、問題は簡単だ、これらの矛盾は『写実性』を離脱したいといふ域内で解決してゆくことである。
 超写実をやりたかつたら、他の団体へ行くべきである、写実との格闘が『新しい芸術』を生むことが不可能などといふ不心得な作家はこの団体にはゐないと思ふが、新しい仕事が出来るかできないかは、写実性への喰ひ下りが徹底してゐるか、ゐないかに依つて決まるし、仕事の面白さはそこにこそある、超写実的な現実逃避の作家はこれから随分でるだらう、然しこの新しがり屋の仕事はものの二年とは続いたためしがないのである。
 さうした意味で春陽会、国展の作家はその手法の写実性が悪いのではなく、観念が古いのだ
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