的に問題にしなければならないだらう、殊に新しい批評の難かしさは、後者に多くかゝつてゐるやうである。
 桂月氏の小品展から受ける感じは、日本画の技法馳駆の曲者の展覧会といふ感がした、同じ曲者でも横山大観氏の水墨などをみると所謂その『曲者性』がヱゴイストらしい、観る者がどのやうに見ても結構といつた、投げやりの無責任さを発見する、桂月氏の場合には、筆者以外に外部世界として観賞者が存在するといふことなどは、一向お構ひなしに、押しの一手でゆくといふ大観式の曲者性とは全く違つた読者に対する誠実さがある、この誠実さや、見てゐて好感を与へる点は、桂月氏の作家態度、描く自然物に対する接触の方法が与へたものである。
 作者の曲者性を発見するとすれば桂月氏は何にもかにも『細かく描いてゐさいすれば間違ひはない――』と考へてゐる点であらう。『雛鵞』では鳥の量感を巧みに出してゐる以外に、動いてゐる細かなふるへと、鳥の毛の柔らかさとこの場合、量と運動と質感との三つの絵画上の重要なものゝ、巧みな結合を果してゐる、これに反して『長門城』を仔細にみると、水は描写が細かい割に、稚拙であり、言ひかへれば無神経な描き方であり、
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