た作品を描かなかつたのであらうか、否、決してさうではない。それは氏の仕事のすべての状態が、氏の作品を理解する条件に恵まれてゐなかつただけのことである。
 この辺で筆者が小倉遊亀論をやるといふことは、甚だもつて興味の深い時期にぶつかつたといふことができよう。しかも現在小倉論をやるといふことは非常に困難な状態に際会してゐる。それは頭で[#「で」に「ママ」の注記]なしに批評したり、賞めてをくことに間違なくていふ批評をするのであつたら、さうした困難さが伴はないのである。さうした場合ではなく、小倉氏の現在を一つの転換期としてみるといふ場合には、勢ひその批評もデリケートにならざるを得ないではないか――、小倉遊亀氏が何故に評判の作家であるかといふことに就いては、各人各様の見方があるであらう、しかしその各種の批評を貫ぬいて、小倉氏自身の実力的なものが如何なるものであるかといふ吟味は案外に行はれてゐない。
 しかし最近に於いては、これまで女なるが故にも甘やかされてゐなかつた小倉氏が、こゝへ来て、女なるが故に――甘やかされるといふ現象がボツボツと見えてきたといふことは、注目すべき珍現象であらう。『遊亀氏の
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