の事情も解いてみる必要があらう。小倉氏の浴女に対して、当時色々の批評が下されたが、そのうちで横川毅一郎氏の『浴女』評が最も当つてゐたやうである。氏は曰く『会場主義と芸術主義との全き調和の中に作家の芸術的意図が豊かに遂げられてゐた――』といふことは、図星しを指したものであらう。更に氏は『浴女』と同様に前田青邨氏の『大同石仏』が共に、同じやうな効果を挙げてゐるといつてゐる前田氏の作品に触れることは次に譲らう。
 小倉氏の『浴女』は横川氏の評の如く、全くあれ以上に会場主義と芸術主義との全く調和を遂げることが不可能だと思はれるほどに、その意味での完璧性を見せた作品であらう。ジャアナリズムがそれを見落す筈がないのである。小倉氏は『静思』などといふ作品もあつて、婦人が端然と坐つて、右の手を机の上におき、左り手を袖の下にをいた作品があるが、かういふ形態のもつ計画的な良さは、一般に理解されることがなくして通りすぎたのである。いま端然と坐つてゐる女が、衣服を脱いで湯船にひたるとき、横川氏の批評ではその作品は『観者の感覚や情緒を揺り動かし、多くの人々にはこの作品の前で甘美な優れた音楽を聴いた時に、経験する高度な感情の喚起を経験したに違ひない――』といはせ小倉氏を指して『近代的な明朗主義』であると断じてゐるのである。
 こゝに小倉遊亀氏の古くからの観賞者がゐたとして、彼は女史の草花の写実的な描き方の中に、『高度な感情の喚起』を感じてゐたとせよ。またさうした草花ものを、小倉遊亀氏の実際的な真個うの仕事と観察し、そこにまた彼女の実力も潜伏してゐたと感じてゐたところが、突然、草花が『浴女』の上では裸となり、『浴後』ではちよつと許りつゝましく肌ぬぎになるといふ、テーマの作品を見せられたとしたら、その観賞者は『浴女』『浴後』から『高度な感情の喚起』を呼び起すどころか、冷水を浴びせられたやうに、驚ろくに違ひない。
 然も作風的にも、かなりに正統的なリアリストの描く『花』類を見せてくれて、しかも日本画家があまり手がけたがらない、西洋草花類をも、美しく描ききつてゐる。花の抒情詩人としての小倉氏は、姓名もかはつた許りか画題上の相貌を変へて立ち窺はれたといふことは、相当に驚異的な変り方であらう。『浴女』に於ける浴槽の中の湯のゆたりゆたりと揺曳する状態の描写は、たしかに彼女の写実家として神経をうちこんだ描き方であつた。そのために観賞者は、絵をみてゐるよりも、湯に入つた気分にさへ捉はれたのである。
 湯槽の中の湯の揺曳を線をもつて現はすには、不正な線、つまり歪めた線を有効に配列しなければならないのであるが、湯や水の揺曳、或は湖水の面や河水の面の揺曳といふものは、これまで日本画家はかなりの数色々の形式で取扱つてきてゐるのである。その効果の出し方は、特にその作家が高い意図計画をもつて描かない限り、水の底や、水面をゆらゆらさせるといふやり方は、甚だ通俗的なやり方でさへあり、通俗的な割りに効果を挙げることに成功する方法なのである。
 しかし小倉遊亀氏は何といふ賢こい作家であらう。その後の『浴後』に於いては、前の『浴女』と全くちがつた作画態度をみせてゐる。しかし世間は正直なのである。『浴後』は『浴女』との連作であらうといつた簡単な批評で押しつけようとしたのであるが連作故に批評を避けることはあるまい。また少くとも温泉気分の嫌ひな批評家があると仮定すれば、『浴後』の方の人物達は、着物をもう着てしまつてゐるし、作者である遊亀氏自身その作品で、湯船の上気を拭ひ去つた、冷静さで描いてゐるために、むしろ『浴後』の方に多くの問題を保留してゐると言ふ意味合から、『浴後』により好感をもつであらうと思ふ。
 小倉女史を賢こいといつた意味は、極端に言へば彼女の技術は『詐術的状態』といつてもいゝほどに隠れたテクニックをもつてゐる画家なのである。こゝに批評家がゐて、小倉氏の草花の描写に非常にこの作家の本質と美をみいだして、それを支持しても既に小倉氏は草花画家として今度の画生活を進めようなどとは思つてはゐないだらう。人物をあれほどに効果的に描き得れば、本人もまたそれにも増して世間も、彼女を人物画家として祭り上げようとするにちがひない。
『浴後』のタイル張りの正確な図式的な配列、それによつて、曾つて『浴女』の湯の中の揺曳で効果をあげたと等しい効果を、そつと誰にも知らさぬやうに効果づけてゐる手腕は末怖ろしいものがある。ただ一言小倉女史に苦言を呈し得ることは芸術的効果は、なるべくその通俗的意図から離れて、それでゐて高い一般性を与へる効果を選ぶべきであるといふ一言だけである。
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菊池契月論


 作家的な人気といふものを、確固とした、不動なものとするといふことは、非
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