常に難かしいことに違ひない。それはその画家が、若いころ所謂世にいふところの出世作を発表してから、それからながい間の創作発表によつても、その実力的位置が少くも変らない、変らないばかりか、年毎に佳作を世に出して、世評が高まつてゆくことは、その影にその画家の人知れぬ血の滲むやうな努力が隠れて居るであらう、ところで年毎に鰻上りに、仕事が良くなつてゆくといふことは、ひとつの驚異であるが、それほど眼だつた上達がなくても、人気といふものを、或る一定の基準にぴたりと押へつけて、膝の下にでもこの気儘に暴れまはる『人気』といふ怪獣を押へつけてをくといふ力も、これまた一つの作家の力なのである。人気の上り下りに、いちいち心臓をどきどきさせてゐては、それは小娘の心臓といふものであらう、世にはこの種の小娘の心臓である画家が少くない、人気がちよつと下り気味になると、中にはその下降線をすぐれた絵を描いて発表して、停めるといふのではない、一種の政治的な手当てをやるのである。なかには酷いのは美術記者に金をつかますなどといふやりかたもある、この種の手当ては、ほんの当座の手当であつて、決してその作家の心理の状態を平衡な平安な状態にをくことのできない、膏薬張り的な人気調節法なのである。
いま菊池契月といふ作家の人気の状態といふものを診断してみる、ある人は斯うその性格と仕事ぶりを評してゐる『契月は才気煥発ではないが――』と、その作品をみると、その穏和な、無理のない仕事ぶりは、この人柄、つまり性格としても才気煥発でもなければ、仕事、つまり制作手段に於いても才気煥発でもないと――思はれる。しかし菊池契月氏を指して、才気煥発でないなどといつた人の顔をみたいのである。また思はず微笑も湧くのである。
決してその人の言つた言葉が誤りだといふのではない。契月は才気は煥発してゐない、しかし翻つてその人は契月の絵を系統的に見たかといふことと、その作品の本質を吟味したかといふこと芸術上の才気とはどんなものかもつと皮肉な言ひ方をすれば菊池契月氏の作品は才気が煥発しないで描ける絵であるかどうかといふことになつてくる。それはその人と私との『才気煥発』なるものの解釈見解の相違なのである。しかしその才気煥発か、否かといふことを吟味するには、契月を俎上にあげることはいちばん適当なやうである。菊池契月氏こそ真個《ほんと》うの意味での、才気煥発と呼ばれるべきものではないかと、私は考へられるのだ。瞬間的な燃焼力で華美な仕事をのこした人も多い。しかし永い画壇生活の中にあつて、自己の仕事を貫徹するといふ方法の樹てかたをきめながらその制約の中で、仕事を押さへ、押さへ進めてくるといふことも、これまた非常な『人間の力』を必要とする。それは人間といふものの感情といふものは、物理的形容に置き換へてみると甚だ『圧力的』なもので、悟性の容積の中では、とかく爆発したがるものである。それを自己の定めた一定量の容れ物の中にいつも充満させながら、この容れ物の中のものを過不足なくしてをくといふこともこれまた一つの技術なのであらう。
菊池契月氏は、さうした意味の強い自己制御があると見るべきだらう。しかもこの自己制御は、それを自己に於いてうけとるといふ、人間的謙遜さがある。その意味は一口でいへば『他人に当り散らさない――』といふ態度である。読者諸君は思ひ当るであらうが、画の制作が順調にすすまないと武者苦者腹で、強引に画面を強調して、それで観衆の感情に押しつけてしまふ態の絵は、展覧会になどはなかなか多いのだ。かうした絵を作者が『他人に当り散らした絵』と私は呼んでゐるのである。我々には何の悪いこともないのに、まるで『これでも感心せんのか――』と叱りつけてゐるやうな押しつけがましい絵がまことに多いのである。さう私が説明してくれば菊池契月氏の画が、ただの一度も諸君を叱りつけたやうなのがあつたかどうか、何時も素朴な状態に於いて、眺めさせるといふ絵が多いのではなかつたか。従つてその世評はまた別だ。だから小説家宇野浩二氏が『麦拒』を評して『実によく書けてゐるといふ。といふ以外に言ひやうのない作品である――』と正直に告白させるやうなものである。宇野氏は契月は二十年一日のやうに。『朱唇』『夕至』等の作品に現はれる女たちの顔と殆んど同じ顔をした女が『麦拒』の場合でも麦[#「麦」に「ママ」の注記]をふるつてゐるといつてゐる。
その宇野氏の批評は当つてゐるにちがひない。契月といふ作家は、二十年も三十年も、さまざまな化け方を知つてゐる一匹の化物を飼つてゐるにちがひない。それは人物の顔はいつも同じでそして着てゐるものが変つてゐるだけといふことは、さういふことになるのではないか、この化け物は『朱唇』では処女らしく手を膝の上に揃へてアドケなく化け、『麦拒』ではモ
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