その最近の仕事をもつて小倉氏の評価を決定的なものに考へることは、小倉氏、またそれを評する者、何れにとつても危険この上ないことである。
『浴女』『浴後』が彼女を画壇上に浮彫りにしたといふことは事実である。
『溝上遊亀といふ画家がゐましたね、いま評判の『浴女』といふ画を描いた小倉遊亀といふ人とは、どういふ関係があるのですか――』と訊ねられるといふことも考へられる。それをもつ筆[#「つ筆」に「ママ」の注記]者が画壇事情に通じない人に訊ねられたとしたら、何とか答へないわけにはいかない。溝上を、小倉に名前を変へたといふ画の話以外の人事関係などを語らなければならないなどといふことは、全くもつて世話が焼けるし、面倒臭い話でもある。
小倉氏の作品に就いて、語ることは好ましいことではあるが、人事を論ずることは避けたいのである。しかし改名の件に就いて他人が理由を質ねたとき、それに対してその理由を芸術論的に答へる方法がないかどうかといふことを工夫してみると、その方法があるのである。それには『溝上遊亀といふ人と、小倉遊亀といふ人とは同一人です、溝上時代には草花の類を描いてゐましたが、今度小倉と改名してから人物画を主として描いてゐるやうです――』と答へよう。溝上時代にも人物画を描かなかつたといふことではなく描いてもゐるし、その画中の人物たちは大味ではないが、それぞれ何かしら特長的な味を出したものを発表してゐる。
こゝで溝上時代を草花時代といふ風に、劃然と分けたことは、溝上時代から小倉時代に到達した遊亀女史の画壇的な系列の中で是非共、溝上時代の草花時代に批評的留意が行はれなければ、小倉遊亀論は成立しないといふことを、特に筆者が強調したいばかりに、さうしたのである。
小倉遊亀氏の草花を描いた作に対する批評は、とかく『つゝましやかな小品である――』といつた批評が多いやうだが、その批評は常識論といふことができる。最近の人物も悪くはない。この最近の人物画は、とにかく『観る者の心をそそる』種類の絵が多い。しかし小倉遊亀氏の作風殊に絵画上の技術問題を解く鍵は、小品でつつましやかで、さりげなく描いた、草花果実の類に、多くの問題が隠れてゐるといふことができよう。
殊に草花の場合に、簇生的な花を描くことに特異な手腕を示してゐる。構図的には、花束のやうに中心をまとめ、色彩上の陰影を加へることには特殊な技術をもつてゐるのである。氏の作品を明朗主義に批評した人があつたがそれは確かにその感を与へる、然しその明朗主義は、最近の人物画に於いて殊にさうした状態をみせてゐるのであつて、草花、果実の類には、さういつた種類の明朗主義は認められない。そこでは小倉氏の写実家であるといふ全貌を、発見することができるのである。二十一回の院展の『花』二題も好評のやうであつた。しかしその作品を小品扱ひにして、決して女史の本質的技術の点に作品を通じて論ずる者はまた少ないのである。『浴女』や『浴後』は一言でいへば一般観衆にとつて取つ付き易い絵なのである。殊に『浴女』の場合は、批評をする人間が、小倉氏の絵の批評ではなく、あの絵がつくりだす温泉的な雰囲気にひたるのには、全くもつて都合がいゝその批評家は、ゆらゆらと立ち昇る湯気の中で、ほんとうに温泉にでもひたつたやうな気持になることができる。そのことは小倉氏の絵がうまかつたからである。しかし小倉氏の絵がうまいといふことと、批評家がその絵をみて、ほんとうの温泉に入つたやうな気分になるといふことは別なのであらう。批評家は絵の実感に溶けこんでわるいといふのではないが、描かれた湯の絵と、真個《ほんと》うの湯との現実性を区分する力を全く失つてしまふといふことは小倉遊亀ファンとしてはいゝが、批評家としては匂ばしくないことなのである。一番関心をもつことができるのは、小倉氏の絵画上の技術問題なのであらう。この技術の様態を解かなければならないのである。然も小倉氏の技術の状態を解くもつとも本質的な画題のものは、むしろ人物よりも、草花果実にありと見る意見と、草花よりも、人物にありとするといふ意見は一応対立しても構はない。
それでは草花を配した人物、さうした氏の作品は完璧であるかどうか、しかし草花と人物との技術的一致といふものはまだ現はれてゐないやうだ。立派に草花を描くテクニックをもちながら、それを人物に添へてはゐないのである。
由来画壇にせよ、他の芸術壇にせよ。ジャアナリズムに乗ずるといふことに就いては、単純な理由でこれを見ることはできない。
小倉遊亀氏が『浴女』を描いて発表したことに就いて、何か世間では得たりかしこしとそれを名作として賞讃したやうな傾きもある。作家の敏感がそれを招くやうにつとめて得られたのか、或はさうした計画が全くないのに世間で突然騒ぎ出したのか、その間
前へ
次へ
全105ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング