三の理由とは闘ふ必要があるやうに思ふ。最も冷静な意味で、大智勝観氏の画業の正統な立場を擁護したいといふ本能に馳られるのである。世間的には大智勝観氏を院展に於ける最大の人格者であり、解脱者であると評されてゐるが、こゝでも絵の評価の規準がみつからなければ『人柄の良さ』に押しつけてしまふ日本の美術批評家のヅルサと無能力とがある。作画上の『人格的方法』とか『解脱的手法』などといふものは無いので、これらの人格、解脱などといふ形容は、作家の生活態度の上にだけ適用できるもので、それ以外には適用ができない。さういふ人柄の方法だけで、大智勝観氏はこれまで祭りあげられ、体の良い黙殺をうけてきたといつても誤りではあるまい。大智勝観氏の作家的実力を証明されるものといつては、氏の作品そのものと、日本美術院の同人に推薦されたといふこと、この二つだけであらう。
 さういふ意味で、この作家くらゐ実力で『押してきた』作家は珍らしい。いや『押してきた』といふ形容が、まだ強烈にすぎるやうで、もつと穏やかな存在としての『押してきた』といふ形容にかはる言葉をみつける必要がある。しかし大智氏の場合、みつかるまいと思ふ、何故なら画壇的位地がながく続くといふことの中には、現在の日本の画壇の現状では、画の出来不出来を度外視した、政治的工作といふものが、相当に有効な場合が多いからである。大智氏の場合の押し方の性質は、かゝる世俗的意味のものではない。従つて『押してきた』といふ言葉にとつて代るべき世俗的言葉はみつからないのである。またかゝる言葉はこの作者には適用できない。
 世間で大智勝観氏の『解脱者』だと評してゐることには、たしかに一面の当つた批評ではある。しかしこゝで日本画の解脱性といふものを考へてみれば何も不思議ではないのである。『解脱』といふ言葉を人柄に押しつけずに、ちよつと許り批評家が、頭を使ふことを億劫がらずに作品にふりあててみるときは、大智氏の作品の本質問題にふれることができよう。いまこゝに三人の作家を取り合してみよう。酒井三良氏と、磯部草丘氏と、大智勝観氏と、そして私がこの三人を列べたといふことは、出鱈目に選んだのでも、悪戯心から組み合したのでもない。それは大智氏が他の二人に較べて『解脱』といふ古めかしい形容にふさはしい作家であるかどうかを調べてみたいので、さうしたのである。
 酒井三良氏の作品の問題点は
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