の写実的な方法のものには、テーマが明瞭で、そのテーマも然も社会的な意味をふかく含ましたものが多く、次の期間には、その画風が、美人画であるといふ理由だけで、松園氏は浮世絵的な方法と接近していつた。しかもテーマを作画方法に加へずに絵をまとめあげようとするときには必然的にその方法だけが、作者の考へ方の大部分を占める。柱をもつて人物を切るといつた絵画上の苦心の傾向に漸次移動していつた。何を描かう、どういふものを描かうといふ組み立てなしでも、形態上の美は組み立てられる。
 完全に造形的立場に立つたとき、松園氏の作品は社会的テーマからは孤立してしまつたそこにはたゞ線の運びの苦心、画面の空白の効果、小雨をサラッと降らすとか、桜の花びらを三片ほど地面にちらばすとか、襟足を極度に美しく描くとか、主題の上では凝ることをしないで、作画方法の上で凝るといふ方法に変つてきたのである。したがつて過去の絵は、その作品は絵画的であるとゝもに、歴史画、風俗画としても存在するが最近の松園氏の作品は、全く絵画的意図から出発して、絵画的方法に帰した仕事といふべきであらう。松園氏の作品の線の動き、連絡、切断等に注意してみるときは、殆んど不可能と思はれる場所で、甲と乙の線が結びつけられてゐるものもある、しかもそれは少しも不自然ではなく、造形的な完璧さをもつて結びつけられてゐる。しかしその方法が写実的方法でなく、超写実、錯覚的な方法での調和が行はれてゐることに気附くであらう。松園氏自身の絵画方法の発達がその点にまで到達してゐるのである。
 つまり普通の画家ではとても行へないやうな方法、線の錯覚的調和といふべきものも、こゝでは完成されてゐるのである。
 吾人は、松園氏自身もさうであらうが、松園氏の過去の作品の良さの魅力にひきずられるものがまことに多い。
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大智勝観論


 大智勝観氏の画業に対して、いまこゝに殊更に声を大にして叫ばなければならない理由といふものはない――、然しながら、その半面に『声を小さく落として』語るといふ理由は一層ないのである。更にもう一つの理由が残つてゐる。それは大智勝観といふ作家を『全く黙殺する――』といふ理由である。この三つ目の理由をもつて、大智氏の従来の仕事が看過されてきたといふことが少くないのである。私は批評家的見地からも、世間の第
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