手にきめて、中央的、一般的規準にのせようとしないのである。東京が画壇の中央であるとすれば、松園氏の京都趣味は地方的趣味なわけである。しかし誰も東京が画壇の中央だなどゝ愚かしいことを言ふものは一人も居ない筈だ。芸術の伝波性は、その画家が画面に交錯させる。心理の火花のやうに、そのやうに、素早いものである。京都と地方の趣味が、松園氏の作品を押しすゝめる中軸になどなつてゐるといふことは認められない。然も松園氏の最近の傾向としては、さうした地方性や、趣味性は全く影をひそめたといつてもいゝ、然も浮世絵の行き方などゝいふものとは、はるかに遠いところにある。何故ならもしその画風が松園氏の場合、浮世絵に甚だ酷似してゐたとしても、それを指していつまでも「浮世絵の行き方」などゝ言はれるべきではない。浮世絵といふ画風は、その当時の社会的内容が産出したところの抜き差しならない画風と呼ぶことができよう。浮世絵は、その最も画風の流行した当時を境として滅んでいつたのである。浮世絵は「人生」を指して「浮世」と呼ばれる頃の時代風俗画の方法なのである。厳格な意味に言つて浮世絵が滅んでしまつてゐるのに、浮世絵の方法を採用するといふことは不可能なのである。
上村松園氏の作風を浮世絵の方法だといふ批評はその批評家の頭の中に浮世絵といふものが、余りに概念として多くもつてゐすぎるからである。松園氏は言はゞ美人画の辿る方法上の路筋を来てゐるだけにすぎない。然も松園氏の画風と、浮世絵との関係を問題にするのであつたなら、それよりも先に、松園氏の初期の仕事を一応調べてみる必要があらう。「孟母断機の図」(二十四歳頃の作)にしても、これはまた浮世絵的傾向とは、およそ縁遠い厳格な手法なのである。「人形つかひ」にしても「花ざかり」にしてもそこには浮世絵の傾向の片鱗も認められない。殊に初期の作品に於いては、その作品のどれをとつてみても、みな主題をはつきりと掴まへた作品なのである。主題を捉へるといふことは、斯ういふ状態の絵を描かうする目的のはつきりしたもの、つまりその作品での主題とは、単に絵を描きたいといふ本能にのみ立つた主題ではなく、社会的主題なのである。上村松園氏の初期の作品には、この社会的主題を明確に把へた作品が多く、その何れもが優秀作なのである。「人形つかひ」にしても、「花ざかり」にしても、その画面に漂ふ雰囲気といふものは
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