じである。
 作品をみても、さうした敏捷さ、激情性はよく表現されてゐる、一口に言へば奥村土牛は作家的にも人間的にも、非常に激しい人なのである。第二十四回日本美術院出品の「仔馬」はその抒情性に於いて隠されてゐる作者の人間的な優しさを露はしたものである、しかし奥村氏の人柄の優しさは、その人との対座に於いては感ずることができるが、作品の上ではそれとは反対の極限を画風の上で示す、土牛氏の芸術観は厳格であり、苛烈なものがそれである。人柄としては慈母的優しみをもち、作品的には厳父的いかめしさを示してゐる、院十九回試作展「朝顔」も二十三回試作展「野辺」では、描かれた枝葉の尖端はあくまで鋭どく針のやうにとがり、剃刀のやうに薄く描写されてゐた、その描写の態度の鋭どさは同時に画面の緊張感に於いては成功してゐたが平面化されすぎた憾みがあつた、しかし土牛はその精神的な追究を、空間的に置き替へていつた、土牛の真骨頂は、その辺りから発揮されてきたと見ていゝ、日本美術院第二十五回展の「鵜」あたりは転換後の良い特長が現はれたとみることができる、殊に最近の作では青丘会新作展覧会「八瀬所見」は土牛自身の感懐を語る、代表作と見ることができるだらう、土牛には一種特別の客観描写の力量があり、その部分が他の作家の追従のできないところである。
 私はそれを「土牛の突離し」と自分で名づけて呼んでゐるが、描く対象を少しも甘やかさず、ちよつとでもアイマイだと思はれる手法は用ひられてゐない、たとへば彼は一つの空間に木の枝を描くとしても、彼の対象に対する主観的、客観的態度の分け方のはつきりしてゐる点、空間の分割の仕方、の冷酷だと思はれるほどの突ぱね方は、その点では画壇でも第一人者だといふことができよう、しかし芸術とはその認識の方法の優れてゐることだけで仕事の全部を終つたわけではない、もつと綜合的な完璧を目標としなければならない、土牛の認識の方法は他の作家が真似ができないとしても、また土牛の欠けてゐるものを他の作家が完成してゐることも多いのである、遠いところの枝はあくまで遠く、接近したものは、あくまで近くといふ突離しは土牛のやうな思索力の強い作家でなければ、それを現実的な実感的な形では表現できないのである。
 画商の情けで土牛が大家になつたといふやうなこと――もそれもいゝであらう。しかし土牛がこゝまでやつて来るのに、その頑
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