秋と冬との間にある女かわかる位である。日常性に於いて、その現象の移り変りを敏感に捉へるといふことこそ、風俗作家の重要な立場といふべきだらう。風俗画や、人物画家の難かしさは、画のテクニックの上の難かしさの以外に、その人物の背後関係、つまり生活環境を洞察し、これらの背後的なものの中に、人物を浮彫にしなければならない、ただ人物を描くといふだけで済まないものがある、伊東深水氏の作品はその人物の生活環境の出し方に於いて、観るものの気のつかないやうな方法で、そつと巧みにやつてのける、人物の身の周りにある、何んでもなささうな一備品を描いてあることによつて実際には大きな効果を生んでゐるものである、さうした用意を絵の中に仕組むことに意識的であり、工夫を凝る作家に、洋画壇には藤田嗣治氏があり、日本画壇には伊東深水氏がある。藤田嗣治氏の作品の風俗画的な作品には人物を書くといふ以外にその周りのもの転がつてゐる籠とか、皿とか、或は人物の着物の模様とかに、その地方色や、風俗をはつきりと捉へたものを選んでゐる、さながらこれらの静物的なものを先に描き、その中に人物を後から加へさへすれば、絵ができあがつた上に、風俗画としての人物の生活環境を生々しく描きだしてゐる、伊東深水氏の場合は、洋画家藤田氏のやうに露骨な方法ではない。いかにも日本画家らしく、そつと気取られないやうに工夫してゐる、女の敷いた座布団の厚味で人物の生活や秋といふ季節を語らしたり、昭和九年の作に「細雨」といふのがある、女が二階の手すりに腰をかけてゐる図である、細雨と名づけられるほどのものであれば、眼にも見えないほどの細微なものであるべきで、言葉を変へて言へば、描きやうのないほど細かいものだ、少くとも線と称されるものでは細雨は描くことができない、細雨とか糠雨とかいはれるものは、線よりも点にちかい表現を求めることが至当であり、もし線をもつて表現しようとする場合は、その線の長短に拘はらず、極度に細い線を必要とされる、その極めて細い線といふのはその極度に細いが故に、点に接近する、細い線を観て、その線が部分的に切断されてゐるやうに見えて始めて、細かな雨を描くといふ目的に達することができる。いま伊東深水氏の「細雨」の表現をみれば勿論さうした表現の、用意に欠けてゐることはないが、もう一つの用意をそこに発見する、それは線や点で雨を描いただけで果されない
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