的方面に対する感動であつた。
画面から発散する異様な魅力は、感情的なものであつただけ、素朴に我々の感情に訴へてくる。
ジョルジュ・ミシ※[#小書き片仮名ヱ、12−上−10]ルの『もんぱるの』は、モヂリアニをモデルにしたものと言はれてゐるが、この小説の中でモヂリアニはズボロスキイに対して斯ういふことを言つてゐる。
『うむ、よし、俺がやつてみたいと思つてゐることを、まだ君に話さなかつたね。硝子かと思はれるやうな色なんだ。それを画に塗ると、瀬戸物のやうに見えるんだがね。七宝を描いてみてそれから肌を描いて見ようと思つてゐるんだ。解るかね、ズボロ、どんな、どんな絵描きだつて、俺が今、肌を、チチアンの描いた肌より美しい肌を描くために、使つて見ようと思つて、マチヱールに到達した者は一人もないんだ――』
と、いつてゐる。
私はこの文章と一致するものをモヂリアニの描法から感ずる。ルノアールの描法は一種の硝子的な透明感があるが、それは筆触のうるささで相殺される。モヂリアニの場合は、ルノアール的なタッチの煩雑さがない。しかも七宝的な絢爛とした美しさは、洋画の材料としての油絵具を完全に生かしきつたといふ美しさである。主としてこの華麗さは、彼が光りに対する理解の深さから来てゐる。光りが単に物象からの反射としてみる場合は、安易にハイライトを描ききつて、物質に対する光りの効果を外光派的に生かすことができよう。だが、モヂリアニの絵具の扱ひ方は、もつと決定的な、的確な意図の下になされてゐる。
つまり、光りの物質への肉化を行つてゐる。『硝子かと思はれるやうな』肉体の美しさは、彼の一筆毎のタッチに光りの消化と吸収を行つてゐることである。光線は彼にとつては物質に対する後からの従属物ではない。現実的なイデー、光り及び生命の肉化のために彼は僅かなマッスの中に、驚くべき光りの諧調の仕事を為し遂げてゐる。だが、人々は彼の苦心を看過してゐる。ただ、全体的な感[#「感」に「ママ」の注記]能さにのみ撃たれて彼の神経のリズミカルな複雑さを見逃してゐる。透明色の無限の重ね出をしてゐるゴオギャンに比して、その意味では彼は確かにゴッホ的なところがある。
発光の法則や、色彩の原素的な表現をモヂリアニ程生かし切つてゐる画家は少ない。ゴッホはその点で色彩の世界では原素的といふよりも、中間色の世界の開拓をしてゐる。
ただ
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