チンの作品も私を感動させたし、またルオーに就いては、ある種の失望を感じられた。スーチンやルオーに就いての感想は次の機会に述べることにしよう。画家といふものは案外臆病な性質があるものらしい。セザンヌやマチスやピカソの絵の前には画家達の人集りがいつもある。だが少し異色ある作家の絵の前には、殆んど寄り附かうとしない。そして遠くからおづおづと感心してゐるものだ。
 この福島展の場合でもさうだつた。画家はモヂリアニの絵の前には何時もガランとしてゐたし、甚しかつたのはスーチンの絵などは殆んど観てゐるものが無かつた。画家達は激しい作品からの衝撃を無意識的に避けようとするのであらう。だからここでは同じ芸術にたずさはる同志に対する観賞の態度は口では玄人を自称するとしても、単なる描かざる一観衆と同じ心理状態になる。またさうなるべきだ。美術上の玄人と素人の限界をいつまでも固執し、主張する人を私は折々見かけるが、その境界を固執するその人の観念の世界には救ひ難いものがある。モヂリアニの絵は、アンリー・ルッソーと同様に『アマツールとしての良さ』に規定づけようとする評者が少なくない。口には言はないが、心の中ではさう思つてゐる所謂自称玄人画家が少くないのである。子供と大人の限界や、素人と玄人の限界や、昼と夜との境界や、大家と無名作家の継目を具体的に説明できる人は幸福なるかなである。絵画が思索的過程に入つてくると、すぐそれを『文学的要素』として排し、絵は『造型美術であるから』などと、何時も反復的にこの言葉を持ち出し、その言葉に拠つて玄人を主張する画家には、到底モヂリアニの良さは永久に理解されないだらう。
 外見的に絵の幼稚さを見て、素人画家と断定し、たまたまその画家のすばらしい画人的なデッサンをみて、その画家を見直すといふ場合が、画家の世界には少くない。
 モヂリアニ程、絵画といふものの一般性や普遍性を良く心得てゐる画家はない。この普遍性こそ『画を描かない人』に絵画の美しさを伝へようとする積極的な態度、芸術家の大衆に対する親切な表現である。
 そしてこれらの普遍性一般性に依拠して尚ほ且つモヂリアニがアカデミーに反逆的であつたといふ困難な努力やその価値を、汲みとらなければいけない。
 福島展での私のモヂリアニに対する感動の性質は奇怪なことには、彼のもつてゐる画に現はれた詩では決してなかつた。それは技術
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