ては、一言も批評ができる性質の作品ではない。見給へ、吉岡の、『馬』に対して世間では何を語り得てゐるか。今年の馬は、去年の馬よりも良いとか悪いとかといつた単純な批評では批評でも何でもない。馬喰的言辞といふべきだ。少くとも吉岡の作品の場合には、この作家の心理的な創作以前の問題に一通りの関心を示してからでなければ、できあがつた作品に対しては一言半句も批評的な言葉を吐けない筈である。吉岡の場合は日本画の新しい形式的確立の手段の立て方が、余りにも内省的だといつてもいゝほどに苦渋な方法を採つてゐる。吉岡の『馬』は、吉岡といふ作家が、描く対象物に対して彼は形態の破壊を目的としてゐるのか、或は形態の構成を目的としてゐるのかわからないほどの状態で描いてゐるのである。彼は破壊しようとしてゐるのか、創造しようとしてゐるのか? どつちであるかといふ疑をもつしかしとにかくそこには一つの作品が生みだされ現出してゐる。その作品の世界は非常に抽象的な不可思議な雰囲気をもつた、吉岡独特な世界を生みだしてゐる。物体を殆んど無視して描いてゐるのかと思へば、さうではなく立派に実在性を捉へてゐる。吉岡はそして物の影とも、光りとも、また量とも面ともつかない一つの新しい実在性を発見してゐる点は、充分問題となつていゝのである。大体吉岡のやうな仕事は、洋画家が、その先進性からいつても先に手をつけなければならないやうな性質の仕事なのである。それを日本画畑の吉岡氏が早くもそこに着眼しその方法の進歩性を採用したといふことは皮肉な現象でもある。これらの吉岡的な創作的苦悶は、一言にして言へば日本画的な或は日本人的な『線』に対する新しい理解が伴ふところの新時代的な苦悶のそれであろう。
 一方福田豊四郎氏の場合はどうか、彼は仕事が吉岡氏よりも大まかな猪突的な冒険を企ててるやうに見受けられる、しかし決してさうではない。日本画の伝統への強い肯定に立脚した上での仕事である。表現の大まかな割に細心の変革を、蓄積的に加へてゆくといふやり方なのである。吉岡の方法は日本画の絵の具の物質性といふものに極度に喰ひ下るといふやりかたで、そこでは画面処理が究極の目的でないのに拘はらず、それに反して福田はあくまで画面処理を心掛ける。彼の『松』をみてもわかるやうに、彼は一本の直線を引くことに対しても、その直線の性質の中に、如何に封建的な要素が含まれてゐる
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