革命的な手段を加へたといふ意味で相当に問題となつていゝ作品である。この『松』をそれでは如何に問題化するか、といふことは、これまたこの作品を問題としてとりあげる批評者側に対しての一つのメンタルテストのやうなものである。福田の『松』に対しての美術批評の各自の解釈、さうしたものの喰ひ違ひ、或は一致、その批評的現はれこそ、自分は作品以上に興味があるものだと思ふ。
 あるひはこの福田の『松』や吉岡の『馬』を力作、大作といふ風な簡単な印象批評をもつて黙殺的に片づけてしまふか、さうした場合も少くないといふことは考へられる。然しながら、福田があの作品に加へた意図計画といふものは決して単純ではない。またこゝでは吉岡堅二氏の創作態度の本質とも関連して、日本画壇の福田、吉岡といふ名コンビの日本画の、新時代性確立のために払ふ作家としての精神的な内部的苦悶といふものに対して吾人は両氏の努力に対して充分に敬意を払はざるを得ない。
 こゝではこの二人の仕事ぶりは俗衆批評を超越して存在するのである。この二人の人気の本質に関して露骨な言ひ方をすれば、世間には福田、吉岡よりも、絵そのものの、うまい作家はザラにゐるのである。然しながら福田、吉岡の人気の高さは、絵のうまさだけでは凌げないものがある。福田、吉岡はこの二人が年齢的にも若いといふこと、その将来性に対する世間の期待と、次には所謂日本画の新しい方向に対して、この二人は何時の場合でも正統な追求の路筋を辿ることを知つてゐるといふ意味から、揺がない世間的な独自の人気を保持してゐるのである。世間では福田、吉岡の仕事ぶりを何かハデな画壇的動きと観察してゐる向もあるが決してさうではない。事実は之に反して、福田、吉岡の仕事ぶりをみてゐると、陰鬱なほど滋味な内気なものといふことができる。両面をもつた物体に光線をあてるとして、その光りを反射的に作用する面は福田豊四郎氏であり、その光りを吸収的に作用する面は吉岡堅二氏といふことができる性格的な両面でもある。この二人位日本画の運命といふものを自覚して、その運命をともにしようとしてゐる作家は他にゐないのである。さうした自覚に立脚して仕事をしてゐるといふことが、この二人を自己の仕事を過度に前進もさせなければ、特に後退もしないといふ実力を示すのである。殊に吉岡堅二氏の『馬』は在り合せの形式的な美術論の中から批評の尺度を求めてき
前へ 次へ
全210ページ中182ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング