あれば、作家の内的生活の道程を一緒に芸術批評も歩るいてゐなければならない。十年前にどういふ傾向の画を彼は描いてゐて、そして今日どういふ傾向を辿つてゐるかといふ、時間的にも一人の画家を客観的に見る親切さがなければ批評家はつとまらない。

    画家のヱゴイズム

 さういふ批評は画壇と共に歩るく専門美術批評家でなければなし得ない。年に一度か二度の展覧会を覗いて、そして文学者が絵画を批評する、そのことは一向差支ないが、若し里見、広津といつた門外漢が、社会的地位で、なにか、これらの人々の批評した美術批評を作品評価の決定的なこと柄のやうに、画家が思ひ違ひをしたとすればそれは画壇の為めにたいへん危険なことである。私はむしろ文壇人の美術批評に画家が何等かの特別な価値を認めるといふ、変態的現象の根元が、画壇自身の中にあると思ふ。つまり『指導的批評家がゐない』といふ事に帰結するだらう。ロクな批評家のゐないといふことが、画家の製作上のヱゴイズムをより極端に助長させ、全く批評家無視となりひいては画壇の混乱を招来してゐるのが現状だと思ふ。

    展覧会至上主義者へ

 展覧会作家に就いて、曾つて藤井浩祐は斯う言つてゐた。彼はこゝでは画家、彫刻家の仕事の『非連続性』を責めて、一年に一度や二度の展覧会出品に、出品する作品にこと欠くやうな者は、平常の不勉強ぶりを覗ひ知ることが出来るといふ意味のことを述べてゐた。この藤井浩祐の言葉は、善意に解釈すべき言葉である。こゝでは藤井は芸術家たるものゝ、製作慾の激しさを要求してゐるのであつて、展覧会を目標としてのみ、青春を朽ちさせてゆく画家の少くない今日、この恐怖すべき現象に対して、画家たるものが相当自己反省して良いであらう。
 私は徒に展覧会軽蔑論者ではない。然し現在の日本の展覧会(主として官設のそれ)が如何なる社会的意義と立場をもつてゐるかといふことに想ひ到る画家は、自分の仕事が可愛いければ可愛い程、この種の展覧会出品の意義に一応の疑ひをもつ必要があらう。
 殊に官設展覧会の存在の理由のアイマイさの一つに展覧会が画家の作品の発表機関であるか、奨励機関であるかといふ二つの認識の中間を漂泊してゐるのが現況である、両者一体の方針にあると主催側は主張するのであらう、事実はこの主催側の主張を裏切り、二つのものゝ矛盾を現してゐる。どちらも徹底してゐない。この
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