脳の襞に直接用をたされたやうな堪へ難い不快感と屈辱を感じた、彼は一策を考へだし、宗教家らしく人間の尊厳に訴へてこれを防がうとした、半紙に墨黒々と『このところ、犬の他小便すべからず―』と書いて塀に張り出してをいた。
効果は良いやうであつた。この神官の家が明るい街が急に切れたところの淡暗い路地にあつたために通行人はその角まで膀胱に力をいれてきて横にかけこんで、いつぺんに膀胱をゆるめるといふ状況にあつた。然しこの貼紙以来、通行人達は人間的な尊厳と万物の霊長であるといふ自覚を失ふまいとして、また犬でありたくない気持からこの貼紙を読むと神官の塀を避けたのであつた。
然し問題は却つてそのために紛糾してしまつた、といふことは、通行人達は彼の塀は避けたが、ものの三間とも歩るかずに、その神官の隣りの家の玄関脇の塀には何の貼紙のないことを発見したからそこで用を足してしまふのであつた。
悪いことには、神官の隣家といふのはこの界隈でも喧まし屋で有名な仏教家の古河氏の家の塀であつたために、古河氏は隣家の貼紙が却つて自分の家の不浄化に拍車をかけた形になつたことを非常に憤つた。
『実に怪しからん、あの貼紙の文句は何事だ、成程彼奴の貼紙によつて冷静なる人間は小便はせんぢやらう、しかしわしは好かん、犬の他小便すべからず[#「犬の他小便すべからず」に傍点]とはその文句自体が人間を全体的に犬と同じ観方でみてゐるといふことを証明しちよる、よろしいわしは人間ぢやない、わしは犬ぢや、わしが小便をしてきてやらうわい――』
みるからに頑固さうな仏教徒は茶褐色の顔を脂肪でぎらぎら光らせながら、隣家の神官新道氏の塀の貼紙をぬらすほど高いところから堂々と用を足して引揚げてきた、悪いことにはそれをまた新道氏が見てゐたのであつた。
仏教徒は引揚げてくると、早速半紙に赤インキで鳥居の図を描き、その鳥居の図の中に『小便無用』と書き自分の塀に貼り出した。
これは『犬の他』の貼紙と同じやうに利き目があつたが、『べらぼうめ、こんな絵をかいて脅かさうたつてびくともしやしねいんだ、』と泥酔漢などはろれつのまはらない舌でわめき立て、却つて反抗的に用を足したし、また犬はかういふ問題には何の関係もなく、平然として塀を汚すのであつた、問題は更に進展した、仏教徒の書いた鳥居の図に関して
『鳥居を描くとは何事だ、われわれは彼奴が我々の奉する神の神格を故意に汚しとると思ふのだ実に怪しからん、全宗教界の問題として宗派院に訴訟する』
と神官はかんかんに怒つた、この係争は続いた、問題はそして今回の東邦宗徒連鎖聯盟会議にも持ち出されたが当日の決議としては
人間的立場からみて、人間を対照としての貼紙『犬の他小便すべからず―』はすこぶる人間自身に対して穏当でない、鳥居を描くこと勿論よろしくない、この二種の貼紙は両家に於ても撤回すること、尚最近これを真似て一般がこの種の貼紙を貼つてゐるのを多く見かけるから、これは宗教婦人会で会が総出で都市の隅々をかけまはつて剥とるため奉仕週間を作ること。
もう一つの問題は通行人の膀胱の緊張を調節し緩和するためには、この都市にはあまり共同便所が少ない、この共同便所の少ないことは人間の居宅に近く放尿するといふ結果になるから至急政府に向つて共同便所増設の請願猛運動を起すことに決議された。
『それと同時に諸君、犬の共同便所も敷設することを政府に請願すべきと思ふのであります――』
『議長それは反対であります、国家にはそれほどの経費はないと思ふのであります』
『議長へ申し上げます、我輩はこの問題は犬がなぜ片足をあげて小便をするかといふ問題の解決が一切を解くと思ふのであります(拍手)つまり――もし犬が片足をあげないで用を足すことができれば、塀には毫末も引かゝらず直に汚物は地に吸収されるのであります、これに対して何か諸君に良い案が有りませんか、ありませんか、ありませんでしたら私が案を申します、我々宗教家は街の犬が小便を催しさうな、気配を知つたならば、そのために用意されたところの腰掛けに車を附したものを人間が引いて行つて、犬の前に運びます、犬はその上に腰をかけて用を足すでありませう、つまり西洋風な一種の便器ですな』
そのとき議長は机の上をカンと拳でうつてから案の提出者に質問した。
『たいへんよろしい案のやうですが、しかし問題がこんがらかつたやうであります、あなたの最初の問題を解く鍵、犬はなぜ片足をあげて小便をするかといふことを御説明願ひます』
『議長先をお聞き下さい、私は熟慮の上で犬のためにこの案を持ち出しました、我々が車付き西洋腰掛け便器を運ぶ理由はつまり何故犬は片足をあげて小便をするかといふことでつまり両足一ぺんにもちあげられないからであります』。
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犬と女中
――犬と謎々のうち――
心理学者吉植吉三郎博士の家庭では女中を解雇した、この女中といふのは、博士夫人が良い女中がゐなくて困ると、出入りの植木屋の顔をみるたびに[#「たびに」は底本では「たびた」]愚智[#「智」に「ママ」の注記]をこぼすので、植木屋が自分の郷里の新潟から呼びよせたものであつた。女中が解雇されてから三日目に植木屋がやつてきた、夫人に向つて
『わたしもあの娘だけはお邸に勤まると思ひましたので、それに田舎とは申しましても、とにかく土地の補習学校も出てをりますし、さうまるつきりの愚か者とも思ひませんでしたので』
と植木屋はもみ手のやり場にこまつた、しきりに尻をもぢもぢして恐縮するのであつた。夫人は植木屋に気の毒さうな表情をした、
『実はね、あの娘は、新聞を読むのも、主人の気に入りませんでしたの――』
『ほう、新聞を読むので、御暇でございましたか、すると何かお仕事の最中にでも、終始よむのでございましたか――』
『いゝえ、仕事はまじめでしたの、なにせ主人が新聞を拝見する前に、あの娘が新聞をみるといふ悪い癖がありましてね』
『――成程』
植木屋は、さつぱり理由がわからなかつたが、女中の解雇の理由にもいろいろあるものだと心に感心した。
吉植博士は、寝床の中で、二種の新聞にずつと眼を一わたり通してからでなければ、起床しないといふ習慣であつたが、博士は新潟からきた女中が、朝早く起きて、玄関の鍵を外しに出たとき、玄関先に突立つて、新聞をひらいて、ざつとそれを読み、それからもとのやうに折畳んで、主人の枕元にもつてくることがわかつた、そのことが博士の自尊心をたいへん傷つけたのであつた。
大速力をもつてまはる新聞輪転機、それに噛まれる巻取紙には、片つ端から文字が転写されながら、白い河のやうに流れだす、一切の機械的な操作で刷られる、その処女的な新鮮な、軽い油の匂ひと紙の匂ひをプンと匂はす、それを寝床の中で嗅ぐといふ博士の毎朝の楽しみは、新潟から女中がきてからぶちこはされてしまつた。
購読料を払つた主人の権限を、購読料も払はない使用人ふぜいが先ず犯す――、
『実にたまらん、それに折目はめちや、めちやだ、近頃のわしに紙や活字の魅力的な匂ひは、みなあの女中奴に横領されてしまつた、実に不快そのものぢや――』
博士の不満に夫人は女中に向つて
『ネイヤ、お前も新聞も満足にない田舎にゐたので、さぞ新聞を読みたいでせうが、新聞は御主人の学問のことでとつてゐるのです、だから、わたしも遠慮して、なるべく読まないやうにしてゐるほどなのですよ――』
といふのであつた。丁度その時、博士は外出から帰つてきた、夫人はそれをしほに、女中に向つて、話を一層大袈裟にもつてゆかうとした、
『ねい、貴方、いまもネイヤに新聞のことを話してゐたのですが――』
博士は、夫人には答へずに、いかにも苦々しい表情をして、でも鷹揚らしく、
『うむ、新聞のことか、いや大した問題ぢやないさ――』
とうそぶくのであつた。
その時、女中はいかにも言い難さうに体の向きを博士の方にかへながら、おづおづとしやべるのであつた。
『旦那さま、ではわたしの見る新聞を、別にとつていただきたうございます、お代はお給料の中から、引いていただきまして――』
博士の顔色はみるみる変りだした。『何といふことだ、わしより先に読むなといふと、今度は自分で購読するといふ、――然も女中はたしか月五円やつてゐる筈だ、そのうちから払ふとは、いや大胆な話だ――』とこゝろに呟やいた。夫人は
『お前が別に新聞をとるの、まあ、それも悪くはないわね、でもそれでは角が立つといふことになるわ、お前も東京に出てきてみれば、いろいろ学問もしたいでせう、しかしねネイヤ、学問といふものは、べつに新聞からばかりとはかぎりませんよ、利巧になるといふことは、何も新聞を読まなくてもなれることですよ、御覧なさい、うちの犬のプーリを、教へもしなくても、両脚を使つて、上手に玄関や、勝手の戸をあけるぢやありませんか――』
その言葉に今度は女中が、自分と犬と比較されたことで、何か胸のあたりがムカムカとして、気が済まなくなつて、嘔吐気さへもよほしてきた。
『でも奥様、プーリはほんとうに困ります、お台所の戸をあけましても、ただの一度だつて閉めたことは御座いませんの、そのおかげで空巣にわたしの下駄を盗まれました』
女中は俄然、勇[#「勇」に「ママ」の注記]弁になつてゆくのであつた、でも彼女の眼頭がしだいに熱くなるのであつた、彼女が顔をあげたとき、彼女はメソメソと泣いてゐた。
『ええ、奥様、旦那さま、(かういつて呼吸をのみこんでから)わたしはプーリより馬鹿でございます――』かういつて、主人夫婦に何か飛びかゝるやうな格好をした。
『ぢや、旦那さま、なぜプーリは、なぜ犬は新聞を読まないので御座いますか――』
犬は読まない、しかし自分は読めるといふ立場を強調しようとして、こんな珍妙な問を発したのであつた。
博士はぐつと詰つた、そして額に眉をけはしくよせた。
『何、犬が新聞を――、わしはまだ、それは研究しとらなかつたよ、アハハハ』
博士は哄笑した、夫人も博士に声を合せて笑ふのであつた、最初、新聞のことは大した問題ではないと空うそぶいた博士は、いまはこの犬が何故新聞を読まないのかと、愚問を発して主人に反抗する女中を追ひ払はなければ気がすまなくなつた。
女中は帰国した、夫人が毎朝新聞を博士の枕元まで運んできたから、新聞に就いては何事も起らなかつた筈であつた、こゝに不思議なことが起つた、といふのは、博士はたつたいま夫人の運んできた新聞の折つたまゝのものを寝床に仰向いて眺めてゐた、すると新聞の折が崩れてゐるのだ、そんな日が幾日もつづきだした、何者か、毎朝自分の見るのに先だつて新聞を開いてみるのだらう、悪魔のやうな女中の奴はゐないのだ、するとあいつに変つて新しい悪魔が忍びこんだのか、――博士は或る朝、またも折目の崩れた新聞を夫人から受けとつた、寝床に仰向いたまゝ、博士は何か秘密を探るやうに、新聞を開いた、とたんに怖ろしく大きなクシャミがつづけさまに出て、同時にまるで槍をもつて不意に突かれたやうな痛みを、両眼にかんじ、半こはれの機関銃を発射したやうに、クシャミは続けさまに出て、博士は両眼の痛みをしつかりと両手で押へ、クシャミをしながら、部屋中を狂ひまはるやうに駈けあるいた、夫人が襖をひらいて驚ろいて其場にやつてきた、夫人は博士を抱へるやうにして台所に連れてきて、水道の水で眼を洗滌し、ハンケチで幾度も鼻をかんでやることで、眼と鼻の苦痛は漸くにして去つた。
博士の不機嫌な顔を見ると、その顔は夫人が結婚以来始めてみかけるやうな異状な不機嫌な顔をしてゐた、博士は無言のまゝで再び自分の寝床に引帰して行つたが、寝具の傍に投げとばされてある新聞を、怖ろしいもののやうに、再びそつと開いてみてゐたが、その時博士の表情は異常な驚ろきで痙攣し、殆んど口がきけないものの興奮にとらはれたのであつた。
『あゝ、プーリが、プーリが――』
博士はかう叫ぶと新聞を鷲掴みにして夫人の部屋にやつてきた、博士は再度『あゝ、プーリが、プ
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