に触れると、人々は恐怖の叫びをあげて踏みつけながら、他人の足の間へ、この不快な迷惑な盗品を移さうとした。掏摸と監視人との格闘と乗客の苦しさうな叫びをのせて、エレベーター・ガールの気転は、監視人が完全に掏摸を捕へてからでなければドアを開けることをしなかつた。
『癪にさはりましたよ、でもわしはナポレオンの立像をうんとふんでやりましたよ』と彼は監房で退屈なとき同宿の人々に失敗談を語るのであつた。

  小為替

 工場地域の窪みに沼のやうに水が溜つてゐた。そこの沼の蘆の繁みに一人の少年が隠れてゐた。彼は自分の隠れてゐる場所から見えてゐる車輪工場の寄宿所の窓の灯が暗くなるのを待ちくたびれてゐるのであつた。
 寄宿所の灯は暗くなつた。少年は雀躍りして、小脇に抱へてゐた新聞包みを地べたにおろし、中のものを出した。謄写版刷のビラ数百枚で、それにはかう書かれてあつた。
『労働者諸君、欺されるな、ファッショ組合××会のダラ幹をボイコットしろ、君等自身の争議委員を選べ―』
 少年は悪戯児《いたづらつこ》らしく、このビラを眺めてにやりにやりと笑ひながら、忍び足で、めざす建物に接近して行つた。
 建物の窓に近づいて中を覗くと、小さな電燈がともつてゐた。寄宿所の内部に約二百人の労働者が、乱雑ながらも、数列に布団を列べて眠つてゐた。壁には争議のスローガンや、組合本部からの激励文、ファッショがかつた文字を書いた張紙などが、壁に所狭いまでに張られてあつた。
 少年は暫らく人々の寝息をうかがつてゐたが、大胆にひらりと窓を乗り越えて内部に忍びこんだ。爪先であるきながら『静かに―静かに―』と自分に自分で言ひながら労働者の枕許に一枚一枚ビラを配つた。
 彼は配り終ると、窓を乗り越えて、戸外に出て、ほつと吐息をついた。
『あいつらは、明日の朝、驚ろくだらう、そしてダラ幹共は叫ぶだらう―反対派が忍びこみやがつた、みんなビラをよこせ、ビラを読むなア』
 少年は愉快さうに口笛をふきながら歩るきだした。
『失敗《しま》つた、紛失《なく》しちまつたア』と不意に叫んだ、次の瞬間に、それはビラと一緒に労働者の枕許に配つてしまつたに違ひないと確信した。
 今朝郷里の阿母《おふくろ》から少年の処に『五円』小為替がついた。阿母《おふくろ》が郷里の繩工場で手を冷めたくして稼いで送つてくれた金だ。それがいま懐中にない少年は走り出した。彼は工場の窓を乗りこえると、人々の寝息を窺ひながら、叮嚀に自分が配つたビラを一枚一枚ふつてみて、おふくろの小為替がビラに密着《くつつ》いてゐないかどうかを調べだした。
 一つの布団でふいに男が顔をあげて、きつと少年をにらみつけて
『誰だつ―貴様は―』
 と低い声でいつた、失敗つたと思つたが、少年は
『誰でもない―静かにしろ、おれは共産党だ』その男はくるりと布団をかぶつて、底の方へゴソゴソと芋虫のやうにもぐつてしまつた。
 ビラを調べてゆくうちに、ふと小為替はシャツのポケットに入れてあつたことを思ひ出した。果してポケットに入れてあつたので、彼はそのとき危険な場所を去りだした、少年はあわてゝ寝てゐる男の頭をいやといふ程足で踏みつけた、男の叫びと部屋中の混乱を背後にきいて、窓から戸外にむかつて暗がりの中に飛び下りると、少年の飛び下りた尻が爆弾の炸裂するやうな大きな音をたてた。それは少年が飛び下りた窓の下が鶏小屋のトタン屋根で、彼はそれを踏み抜き、ギャア、ギャアといふ鶏の狼狽する声と、争議の籠城組との騒ぎの叫びとで、深夜のこの工場地域に住む人々をみんな起き出させてしまつたことを知つた。
 暗黒の中を少年は、ひた走りに仄明るい夜空をめがけて走りだした。走り乍ら少年は可笑しくてたまらなかつた。『共産党だ―』と出鱈目を言つてやつたら、ゴソゴソと布団の中に恐縮して頭をひつこめた男のことを思ひ出したのである。少年はふと手にビラが数十枚残つてゐることに気がつき『こいつもついでに張つちまはう』と呟き、そして暗がりの手にふれたところの壁に一枚を張つた。どうやらその塀は長くつづいてゐるらしいので、少年は嬉しくなつて、どんどんと急スピードで次々と塀に張つて行つた。本能的な快楽がこの少年を捉へて無我夢中でビラを張つて行つた。壁は何処までもつづいてゐたがこの永遠につづく壁への闘ひを楽しむやうに少年は張つていつた。最後の一枚を張り終つたとき、手元のぼんやりした明るさで、そのビラを張つたところが壁の尽きたところで、しかも彼が張つたところは壁ではなくて、大きな木の看板であることを知つた。彼が張つたビラの板に浮き上つてゐる文字を読みくだして、少年は呆きれてしまつた。永遠につづく塀、その塀つづきのところにかかつてゐる板には『××警察署』と書かれてあつた。そして少年の背後には一人の背の高い警官が立つてゐて、怪訝さうに、警察の門柱にビラを張つてゐる少年の手元と顔とを見較べてゐるのであつた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
犬はなぜ尻尾を振るか


 東洋電機製作株式会社の社長蛭吉三郎氏は信念の人であつた、たいへん直感的人物で物事の要領を捕へるといふ点では、社員も頭を下げぬわけにはいかなかつた、例へば社長は事務机の前に三人の社員を呼んで、それぞれ事務上のことを、三人同時に報告させ、自分は眼を細くしながら、そはそはと聞いてゐるとも、聞いてゐないとも判らない焦躁状態で、机の上の書類を両手でがさがさと掻きまはした、それでゐて三人の事務員の報告を一度にちやんと聞いてゐるといふ才能があつた。
『××君、××会社へやる品物の見積りはあれぢや、いかんぢやないか――』
 さう叱つておいて次の社員に向つて、
『さうか、よろしい、ぢや君すぐ電話をかけて先方を呼び出して――』
 三番目の社員には、『困るね、君もうすこし研究してそれから報告をするやうにしてくれ給へ――』といふ調子であつた。
 人の話に依れば蛭氏の私宅には、電話が便所の中にまであるさうだ、彼は左手で受話器をはづし耳にもつて行き、右手を別な方面に動かしながら、ふと厠の中で思ひ出した用件に就いて、間髪をいれずに相手を臭いところに呼び出すといふ活動的なエネルギー主義者であつた。
 ある夜、蛭氏は少量の酒で、したたか酔つた、顔をつめたい風にさらし、珍らしく悠長な気持で自宅へ帰りつつあつた、そのとき蛭氏は自分が歩いて行く数歩先に、一匹の母犬らしい腹の皮のたるんだ、骨組みの大きな犬が、どこかへ向つて忙がしさうに行くのを発見した。
『おい、どこへ行く、忙がしさうに――』
 と蛭氏は犬に呼びかけた、しかし犬は答へない、犬の黙答に対して、蛭氏は敏感にそして直感的に、
『鼻の向いた方に幸福があるにちがひないぢやないか――』
 と犬が自分に答へたことを感じた、蛭氏はこの種の反抗的態度を好まなかつたから、非常に憤慨した、握りに金の飾りのあるステッキの先でトンと地べたを突いて犬に向つて叫んだ。
『君、はつきりと言ひ給へ、むぐむぐ口の中で言つてもわからんぢやないか、報告といふものは、もつと明瞭に、事務的に言はんと困るぢやないか――』
 そのとき犬はハッと立ち止つた、犬は体をゆすぶり、尻尾を大きく激しくふつた、犬が人間に対する追従の度合をはかるバロメーターであるかのやうに、尻尾は車輪のやうに蛭氏の前で、大きくまた小さく廻転した。
『よろしい、帰つてよろしい、また明日《あす》――』と蛭氏は手短かに犬に向つて言つたが、その時、蛭氏は非常に内心感動したのだ、彼は洋服のポケットから慌てゝ手帳をとりだし、暗がりの中で乱暴に鉛筆を走らして、手帳にかう書きつけた。
『犬はなぜ尻尾をふるか? 疑問解決す、明朝より全社員尻尾をつけて出社の事――』
 弾性のある針金を芯にして、これに真綿をぐるぐるまき、天鵞絨《ビロウド》の袋をかぶせてできた、男社員は黒、婦人社員は赤、の尻尾は配られた、これを男社員は洋服のズボンにつける、丁度肉体では、原始時代人間が猿であつたといふ痕跡がかすかに残つてゐるあたり、尾※[#「低」の「にんべん」に代えて「骨」、第3水準1−94−21]骨の箇所に尻尾を装置させて出社させたが、家を出るとき男社員は、さすがに尻尾をふつて街を通ることに人間的恥辱をかんじた、そこで尻尾の先端に糸をつけて、上着の下でそれを首のあたりに吊つて、街で尻尾が現れる事を極度に怖れて出勤しなければならなかつた。
 女社員は尻尾をスカートの上に装置するのだが、女達もスカートを二枚重ねてはいてくることで、尻尾は二枚のスカートの間に隠すことを考へだした、混みあふ電車の中で、つい糸が切れて上着の中から尻尾が飛び出す危険があつたが、さうしたラッシュ・アワーの場合には男社員も婦人社員も、尻を両手又は片手で押へて電車に乗り込むといふ気苦労が伴《ともな》つた。
 蛭社長は社員と話しながら、じつと社員の尻尾を観察することを忘れなかつた、尻尾がなかつたとき社員の感情の動きのわからなかつた欠陥は除去され、尻尾をつけたことで社員の感情の伝達がすぐ尻尾に現れたため、社長は社員達がそれぞれ個性的なふり方で尻尾をふるのを眺め大いに満悦した、大ふり、小ふり、さまざまな尻尾の振り方に依つて、社員の勤怠や、成績に関するメモをとることもできた、社員達にとつて然しさまざまなうるさい出来事が起き出した。
『あいつ、××課長奴、社長の前であの尻尾のふり方をみたまへ、振るわ、振るわ、大車輪ぢやないか、あんなに振らんでもネ』
『出納部の××君を見給へ、社長の前のあの醜態をさ、おや感極まつて尻尾を股の間に捲きこんでしまつたよ――』
 といふ噂をしあふのであつた。
 蛭社長は尻尾の装置をもつて、事務能率上の画期的創案なりとして非常な自慢であつた、或る日蛭氏は社長室から何心なく、会社の屋上に眼をやつた、丁度昼休みの時間で、沢山の社員が明るい日光を浴びて街をみおろしながら嬉々としてゐるのであつた。
 そのとき社長は、一人の婦人社員が猛烈に尻尾をふつてゐるのを発見した、傍に一人の男社員がゐて、それに答へるやうに、しきりに大振りをしてゐるのであつた、気がつくと屋上の男女の社員は、どれもみな猛烈に尻尾を振り合つてゐるのであつた。
『おゝ、わしは判らなくなつてきたぞ、人間はなぜ、あんなに尻尾をふるか――といふことぢや、新しい謎が出現したわい、然しぢや、問題は、問題の始まりに引戻して考へてみるといふことが、最も聡明なことぢや――』
 蛭氏はその日は鬱々としてそのこと許りを考へてゐた、仕事もさつぱり手につかなかつた、なんて人間の本能なんてものが、正直に尻尾に伝はるもんだらう、醜態なことだ、しかし尻尾を装置させたのは、このわしぢや、いや人間に尻尾のないのが最大の幸福かも知れない――と蛭社長は自問自答しながら帰途についた、こゝろはいつかの犬に逢ひたいといふ考へが大部分を占めてゐた、意外なことには、前日の同じところで、犬とばつたりと逢つた、犬は例によつて鼻の向いた方に幸福があるかのやうに、忙がしさうに歩いてゐた、蛭社長は声をつまらし、しやがれ声でせはしく犬を呼びとめた、
『君――犬はなぜ尻尾をふるか――』
 すると犬はうるささうに、ちらりと人間をふり向いたが、かう答へた。
『尻尾が犬をふれないからさ――』
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
犬は何故片足あげて小便するか


 東邦宗徒連鎖聯盟会議が開かれた、席上高齢者で且つ人格者をもつて自他共にゆるされてゐる宮川権左ヱ門氏の提案『犬は何故片足をもちあげて小便をするか、これが防止の案』は当日の会議で議題として最も宗教家の議論の中心点となり甲論乙駁賑やかであつた。
 問題提出の動機といふのは、主として宗教の威厳に関する問題であつた、問題は数年前開かれた第二十三回の会議の折にさかのぼらなければならない、神官新道氏が自宅の塀に通行人があまりしばしば立小便をする、殊に白昼は勿論のことだが、夜更けになどやられると丁度塀に接近したところに寝室があつたために、通行人がそこで用を達する尿の響は、眠つてゐるこの宗教家の
前へ 次へ
全19ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小熊 秀雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング